オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

ばあちゃんと桜

今週のお題「お花見」桜が咲きはじめると、何やら華やいだ気分になる。卒業も入学も、職場移動も何もない、窓ぎわ身分の中年にも、春は優しくしてくれる。まるで、ナンバーワンホステスが末席のしょぼくれた客にも笑顔をくれる様に、桜は観る人全てに、美しい桜色の微笑をふりまいてくれる。

いつも見ているはずの山の端に、パッチワークの様に現れるぼんやした桜色の塊を見つけて、そこに桜の木があったことを知り、世界の秘密をひとつ知ってしまった様な優越感にひたる。といっても、ひとりでふふんと鼻を鳴らし、続いて花粉症のためにくしゃみが止まらなくなるだけなのだが。

 満開の桜の、あまりの優美さに圧倒されて、息をするのを忘れてしまった事があった。息を呑むとはこういう事なのかと、ひとつ大人になれた気がして嬉しくなったのは、小学生の頃に祖母に連れて行ってもらった、見事な桜並木を見た時だった。最近ではオーバーツーリズムが問題となっていて、つまり美しい場所に人が集まり過ぎて、桜に申し訳ないので景勝地と言われる場所に足が向かなくなってしまったが、数十年前のその場所も、とても人が多かった。祖母は迷子にさせない様に私の手をしっかりと握ってくれていたように記憶している。子供の私は、この美しい桜のトンネルを抜けた先には、美しいけれど知らない街があって、足を踏み入れたら最後、二度と戻って来られない様な気がして怖くなった。その恐怖から、しっかりと祖母の手を握り返したので、握られた二人の手は、私の汗でじっとりとしていた。

その時祖母は、睨めつける様にして桜を凝視している私をちらりと見て、その気持ちを知ってから知らずか突如、言い放ったのだ。

 ぱっと咲いた桜の花が

 春の嵐にもう散った

 あれは何だったのだろうか?何十年も前の事なのに、そんな祖母の一言がどうにも忘れられない。桜が散るところを悲しがる子供に見えたのか?人混みを怖がる子供を和ませようとしたのか?

風流に言うなら、

 久方のひかりのどけき春の日に

 しづこころなく花のちるらむ

でしょうに、ばあちゃん。

教養をひけらかす事もなく、あっけらかんと言ってのけたところがとても潔くて、そう、ばあちゃんはとてもとても可愛い人だった。

 私が本を読んでいると、それだけで褒めてくれた、私のばあちゃん。本を読め、勉強しろ。勉強して頭に入った事柄は、誰にも泥棒出来ないから、とにかく勉強せい。いつも、そう言っていたばあちゃん。大正、昭和を生きぬき、戦争にも翻弄された人の、生き抜く知恵が詰まった言葉を、いつも一生懸命に投げかけていた。

 春の嵐にもう散った、の後には「来年もまた連れて来ちゃるからな」と続けて、にっこり微笑んでくれたばあちゃんの、おくれ毛のくるくるしたところを、私は受け継いでいる。

 あの桜並木がどこだったのか、翌年に同じ桜を見に行ったのかどうか、覚えていない。けれど今年も、桜はそこらじゅうで咲いている。

 桜が散るのを見ると、よくわからない、あのばあちゃんの詩を思い出してしまう。

 桜は、春の嵐に散っても、来年また咲いてくれるから、心配しなくていいよ。

ばあちゃんは、そう言いたかったのだろう。