オブネココラム

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読まない方がいい本のススメ

今週のお題「読みたい本」広島の原爆被害を描いた漫画「はだしのゲン」が2023年新年度から、広島市内の小学校で使う平和教育教材を見直し、使用しない方針と報じられた。

 数十年前の子供にとっても、はだしのゲンは腫れ物に触る様な扱いをされていたと記憶している。読むなと言いたい様な、けれど真正面から禁止もできない、という大人たちの葛藤の手垢がついた「はだしのゲン」を、鼻をきかせて手にとり読んでしまった子供の一人が、私でした。あの頃の大人達が本当はどういう思いでいたのか、今となっては知りようもないけれど、「はだしのゲン」と聞くと、漫画そのものの強烈な印象と、それを真剣に読む子供を見つめる大人達の微妙な顔つき、市民図書館のべたべたした椅子の感触が思い出される。読む前と読んだ後で読者の人格の何かを変えてしまう力が、はだしのゲンにはあると思う。戦争反対、平和に皆んな仲良くしましょうなんていう、薄っぺらいものではなく、もっとどろどろとした、生き延びる事への執着心や、死と隣り合わせで初めて見えてくる生きることの生臭さや醍醐味を追体験させられる。言うなれば、はだしのゲンを読んだ後は人格が複雑な方向に変わってしまう、単純だった子供がその分だけ大人になれる、そういう読者体験が得られる作品だと思う。戦争が、物事を単純に考える人が始めてしまうものだとすると、あれは読んでおいた方が戦争抑止になる。

 先日、プレジデントオンラインに「『源氏物語』は、デカダンスの時代、ほんのひとつまみほどの貴族を愉しませることを目的とした作品。腐敗した摂関政治の時代の、腐敗した貴族社会の空気を恐ろしいほど生きいきと伝えている。  だから、健全な読者は、こんな背徳乱倫の物語などは読まない方がいい」と、作家先生が寄稿されていて、腰を抜かしてしまった。あれは架空の、しかも千年も昔の時代の物語で、近そうに見えて永遠の様に遠くにある何某かの「もののあわれ」を堪能できる(という錯覚なのかも知れないが)普遍的な文学なのだと思っていたから、作家先生がそんな事言うなんて、とにかく驚いた。源氏物語は、もっと下世話に言うと、変な人と思われずに現実逃避を楽しめる物語だと思っている。そんな便利な現実逃避文学を読まない方がいいだなんて、先生ひどいじゃないですか。ところで記事をよく読むと、中村真一郎先生が言いたかったのは、「あまり文学の判らない人たちに、読まないことの劣等感を刺戟するようなことを言って、あおり立てない方がいいと思う。」という事だった。それで少しほっとしたが、同時に、「ははは。読むなと言ったら、君たちは読みたくなるんだろう、お見通しだよ」という、弟子を導く師匠の、高尚な微笑みを勝手に読み取ってしまったのは、私がひねくれ者だからというだけではないだろう。そう考えるともしかしたら、源氏物語は昔から、読むなよ、読むなよー、と言われ続けて千年、読み継がれてきた文学なのかもしれない。

それに比べると、谷崎潤一郎先生の「痴人の愛」などは、子供っぽい連中には理解が追いつかいだろうだから、読むなとまで言わなくても大丈夫と、考えられているのだと思う。ところがどっこい、谷崎潤一郎先生ときたら、君になら分かるだろう、と(それは読者の勝手な幻覚なのは分かっているが)あの美しい文体で、力ずくでもって、グロテスクな愛とは何か、を理解させてしまうのだ。谷崎潤一郎の物語に身体を通すと、現実に性犯罪を犯してしまうリスクは減ると思う。なぜなら、犯罪の原動力となる、人間の奥深くに沈められている愛憎、寂しさや哀しさ、脆さを追体験できたなら、もう犯罪を犯してまでそれを発露する必要がないから。そう。谷崎潤一郎文学も、読むなと言われて読む文学なのだと思う。いま一度読んでみよう。