オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

詰めは甘くても脇は締めて、それが甘い人の生きる道

今週のお題「あまい」詰めが甘い、脇が甘い、甘い親、甘いお菓子、甘い言葉。これらの反対語を考えてみると、面白い事に気がつきました。用意周到である、脇を締める、厳しい親、辛いお菓子、厳しい言葉。「甘い」の反対語なのに、全部違うのです。なんで??

 チコちゃんか、金田一先生に質問してみたいですが、聞いてもらえるとは思えないのでよしておきます。それはそれで、詰めが甘い私の人生そのものの気がしてきました。

 ひとりの、詰めの甘い人の半生を振り返ってみようと思います。その人は子供の頃から本だけは大好きで、それだけの理由で、ガラクタを含めて知識だけは山ほど持っていたので、特別に何もしなくても学校ではそこそこの成績でした。また、何でも素早く理解する事は出来るが、どんどん進んでいく思考に自分でも付いて行けないので、まるでシャッタースピードの合わない写真の様に出力はブレてしまうのです。出力が荒くてブレているので、試験ではもちろん満点は取れない。それで、そういう子供がどうするかというと、もちろん努力の勉強や練習はしない。及第点は難なくとれるので、完璧である事にこだわらない限りは、努力する必要がないのです。そしてそんな風に努力をしない子がどうなるかと言うと、途中から勉強についていけなくなって、学問の世界から脱落していきました。とはならず、意外と勉強そのものが楽しくなってしまい、推理小説を読む様な感覚で数学の問題を解き、物理学では世界の秘密を知ってしまった様な高揚感を感じたりしているうちに、気がついたら博士号を取得するまでに学問の世界に漬かって、かなり長湯をしてしまいました。そうなのです。勉強は、温泉の様に温かくて楽しいものなのです。現代国語に至っては、学校で重厚な小説が読めるのですよ、しかもテスト中にまで。何という贅沢でしょう。

 ところで、そんな甘っちょろい人も大人になり、社会人として、プロとして仕事をするとなると話は別なのでした。見落としやミスは許されない。これはどの業界でもそうだと思うのですが、詰めの甘い人にとってはプロの世界はとても生きづらい世界なのです。もちろんできる事なら藤井聡太さんみたいに何手先も緻密に確実に読み切って間違いのない手を打ちたいとは思ってはみるのですが、どうしても出来ないのです。こうして、詰めの甘い人は完璧を求められる仕事というものを前にして、途方に暮れることになりました。

しかしある時、光が差し込みます。詰めの甘い人が組織に混ざり込むことはあり得ると、先人達は既に気がついていたのです。そのため、絶対にミスが許されない業界では、逆説的にミスは許容されているのでした。いえ許容はされていませんが、ヒューマンエラーはあるものだとして制度設計されているのです。その事を知った時に、詰めの甘い人は、人生が明るくなった様に感じたものでした。ダブルチェックの仕組み、ハインリッヒの法則をあらかじめ計算に入れてヒヤリハットのミスをお互いに共有する仕組みなどは、本当に上手く出来たシステムです。 

 こうして、どうにか仕事人を続ける事ができる詰めの甘い人でしたが、その人は脇も甘いのかと言うと、意外とそうでもないのです。詰めの甘い人が社会を生き抜くには、ぽろぽろと取り落とす玉石混交のもの達を、側にいて拾ってくれる人が死活的に必要なのだから、そういう人を見つけ出す嗅覚だけは特別に優れているのでした。友人も上司も、家族だって運がいいだけでは説明がつかない程に素晴らしい人達ばかりなのは、きっと、出会った瞬間にぐっと脇を締めて、邪悪な人を自分のナワバリから排除しているのだと思います。或いは邪悪な人のナワバリから、さっさと逃げ出すか。その、邪悪なものを嗅ぎ分ける嗅覚たるや、本人も気がつかない素早さと正解さを備えているのでした。

 という訳で、詰めの甘い人には完璧を求めてはいけません。そんな事すると、締めすぎたネジが壊れる様に潰れてしまいますので。でも大丈夫。本田宗一郎藤沢武夫がいて、気弱な足利尊氏に、剛腕な弟、直義がいたように、拾ってくれる人、ネジを緩みなく適切に締めてくれる人は、必然的に現れるのですから。

 皆さま、いつもいつも、本当にありがとうございます。