オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

桜の森の美しさにぞっとする

 満開の桜の森の下に歩きこむと、あまりの美しさにぞっとする。特別に人がいない満開の桜の下では、背筋が凍る思いがする。あれはいったい何なのだろうか。

 桜の美しさの「ぞっとする感じ」を物語に移し替えたものがその物語なのか、物語を読んでしまったから桜を見るとぞっとするのか、どちらが先なのかは、もうわからないが、いずれにせよ桜を見ると、その美しさの深遠に、何かを見つけてしまう。

 

桜の森の満開の下

坂口安吾の傑作と言われる短編小説。

美しい女と山賊の男の物語。

山賊の男の目線で紡がれるのは、下賤の者、けもの同然の男の心には理解を超えた何か、についての物語。

 男は下賤の者だが本物の獣ではなく人間だから、桜の森の下で「何か」に気がつきそうになる。けれど、怖くなって桜の森から逃げ出してしまう。

 そんな男は、美しい女を手に入れる。その事により、男の心はさらに獣から離れていく。

『男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分らぬのです。女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです』

 なんだか分からないけど、理解しなければいけないものがそこにはある、という焦りの様な知性への渇望と憧憬が生じてしまうのだ。男は、獣にはない人間としての知性を自分の中に見つけてしまった。

『女は、身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。彼は納得させられたのです。かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている』

 自然が作ったものではなく、人間の手で作り出された、それも自分が作り手の一部となった美を愛でる事により、男はさらに獣の心から人間へと、移ろっていく。その様は可憐な調子でとても美しい。

『彼には驚きがありましたが、その対象は分らぬのです。』

『怖れは恐怖ではなく、知らないということに対する羞恥と不安で、物知りが未知の事柄にいだく不安と羞恥に似ていました。』

 男が獣の心と人間の知性の間で揺れ続けている間に、女が男を説得して都に行く事になる。

都とは、獣の住む山に対比して、知性ある人間の住む所というメタファーなのでしょう。

 都では、男は懸命に自分の中に芽生えた知性を理解しようと、けれどいまだに獣の心のままで理解しようともがきます。何故なら都の人達は、彼を犬の様に、つまり下賤の獣として扱うからでした。知性を持った人間として扱ってくれる人がいれば、男の知性は可憐に花開いたやも知れません。

 そうしている間に、知性的な美しさの象徴であった筈の女は、美を通り越して、グロテスクな欲望をひたすら走らせて行きます。ある日、男は女の欲望にきりがない事に、何かが違っている事に気がついてしまいました。けれど、どう違うのか表現する事が出来ません。

『あらゆる想念が捉えがたいものでありました。そして想念のひいたあとに残るものは苦痛のみでした』

 男は、都を出て山へ帰ることにします。苦しい想念を抱える位なら、知性を捨てて、伸びやかで自由だった獣に戻ろうとします。

その頃には、女は男なしでは生きていく事が出来なくなっていました。女のグロテスクな欲望に付き合ってくれるのは男しかいないからでした。

『男は女の一部でした。女はそれを放すわけにいきません。男のノスタルジイがみたされたとき、再び都へつれもどす確信が女にはあるのでした。』

 二人の思惑は多少ずれているにせよ、山へ帰る事にします。そして、途中の満開の山の桜の森の下で、男は女を殺してしまいます。

『ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。』

 悲しみを理解した男は、その代償として美しい女の命を差し出してしまっていた。その悲しみが男の命を終わらせたのか、或いは男も女も、そもそも最初から誰もいないのに、桜の花びらが降り積もる様がそう見えただけの物語なのかもしれない、という終焉を迎えるのです。

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。』

 桜の森の満開の下でぞっとするのは、美しさを愛でる事を通り越した先にはグロテスクな欲望があり、キリのない欲望の果てにあるものは孤独である事を、降り積もる花びらが語ろうとするから?

 今年も、ぞっとする程に美しく桜が咲き始めました。