オブネココラム

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西村賢太の私小説、エゴンシーレの自画像

特別お題「今だから話せること」自分の胸の中だけにしまっておこうと決めていた事の一つや二つ、誰にでもあるのでしょう。時が過ぎ、甘酸っぱい若さが蒸発した頃にふと、それほど大した事ではなかったと思える様になる。そうなるまでにはどうしたって歳を重ねる年月が必要なのでした。その後さらに時が経つと、忘れられなくて苦しかった想いさえ、忘却の優しい霧に包まれていくのです。それは老年期の楽しみのひとつで、それでいいと思う。それが普通の人生だと思うのです。真実は時に劇薬で、強い感情は、それが愛であれ憎しみであれ後悔であれ、生のままではエグ味が強すぎるから、発酵させるか甘く煮詰めるために、とにかく時間が必要なのです。時間をかけて熟成させた暁に、それはようやく青春として懐かしんで愉悦できるようになるでしょう。まだ熟成が足りない様なら、そっと仕舞って置くのがいいのでしょう。

 時間の代わりに、優れた私小説は文学という形で、芸術的な自画像は絵画という技術を潜らせる事によって、生々しくて苦い、人生の真実が持つ毒を中和させる仕組みとして機能していると思います。

 西村賢太は、その私小説と呼ばれる作品も凄かったが、随筆集は、輪をかけて凄いのです。あれが、架空の物語ではなく彼の人生の現実だったのかと思うと、読者は心が抉られる様な気持ちになるのでした。中卒で家を出て、人足労働で日銭を稼ぐ。飲めない体質の15歳が、飯屋でビールを添える事を覚えて、嘔吐する。それからの、意地の買淫。父親が性犯罪者だという事を片時も忘れる事はなかったという、自分の中にあるかもしれない暴力的な犯罪志向という遺伝に対する恐怖。小説よりも淡々と語られる壮絶な物語は、淡々とした調子ゆえに、読む者の感情移入を頑なに拒むのです。その徹底した感情移入の拒絶によって、読者は逆説的に物語に絡め取られてしまう、読むのをやめられなくなってしまうのでした。15歳の子供の不安や世間に対する恐怖心と、若い男の強靭な生命力が同居する不思議な世界へ。中卒という、文学からもっとも遠いところにいるはずの青年が、古本をひねくり回しているだけで身につけたという、あの独特の文体。その文体の腕力にぐるぐる巻きにされてしまう様な、どこにもない読書体験となるでしょう。

 エゴンシーレの自画像も、見る者を自分の心を抉られる様な感覚に落とし込みます。生と死が繋がっていて、性欲と背徳感も繋がっていて、普通の人はそんな事忘れてのほほんと暮らす事ができるのに、戦争にも振り回され、最期はスペイン風邪に命を落とした、才能があるがゆえのシーレの生きづらさを、自画像を見る事で追体験させられるのです。

 西村賢太先生が急逝してしまった時、どきりとした読者は多かったと思います。西村賢太は、エゴンシーレが夭逝したのと同じ運命だったのかと。やはり、真実の内面の物語や背負っている業というのは、文学や芸術を潜らせたとしても、晒さない方が魂の安全は計られるのだろうかと怖くなったのでした。

 それでも人は、私小説を書きたがり読みたがる。エゴンシーレの自画像を鑑賞したがる。それはフグ毒の解毒に失敗し、食べて死んでしまった先人を見て、それでもフグを食べようとし続ける、人間の奇習のようなものかもしれません。

つまり、上手くやれば毒入りのフグも美味しく食べられるのです。

 私小説、自画像というのは、読む者観る者の、心の一番柔らかくて繊細な所がえぐれる様な気持ちにはなるが、それでも魂の安全を計りながら、それぞれの人生の真実、真実の毒を嗜んで呑みくだす方法であると信じたい。