オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

リチャード3世と貞観政要

 シェイクスピアって、面白い。知らなんだ。知らないで死ぬのはもったいない程、面白い。
これまで、リア王とか、ロミオとジュリエットとか、利己的にしか生きられない人間のもどかしさのフルコースみたいな物語がどうにも息苦しくてあまり好きではなかったけれど『リチャード3世』は、王位を巡る歴史小説で、実在の人物を描いている。そしてそれは『坂の上の雲』や『龍馬がゆく』の様な明るいものでは決してなく、『鎌倉殿の13人』の様な血みどろの権力闘争、人間模様を描いている。
 シェイクスピアのリチャード3世は、外見が内面を現しているかの様な醜悪な青年として描かれる。
「美しい五体の均整などあったものか、寸たらずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世に投げやりに放りだされたというわけだ。歪んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠える」と、自身の外見を嘆き、薔薇戦争が終わり平和が訪れた時代に、「そういう俺に、戦も終り、笛や太鼓に踊る懦弱な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。…口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪ってやる」と独白する。そして、自分が考えた筋書き通りに「高慢、狡猾、陰険、残忍」なやり方で自分より王位継承権が上の、兄や甥を次々と幽閉、暗殺し王位に就く。ところで、リチャードの狡猾な性質を周囲の人々は理解していて、そんな人物が国王になったとして、なめらかに国を統治できるとは誰も信じていなかった筈なのだ。それなのになぜ、その様な人物が王位に座るような事になったのか、その事もシェイクスピアは丁寧に描いている。彼を王位につけようと手助けした人は、彼に騙された、純粋で幼児的な人物(兄クラレンス)、自分の政敵を倒すために暴君を利用してやろうと考えた悪党(ヘイスティング卿)、「それがどういうことか仔細は問うまい。その意味から私は無実でありたいからな」と、自分は悪くないと思いたい人(ロンドン塔長官ブラッケンベリー。クラレンスが幽閉されている牢の鍵を暗殺者に渡してしまう)。こういう本当は立派な人々の、お互いに狡猾で複雑な感情、政治学的状況が絡まりあって抜け出せなくなっていく。そしてその人達は全員が、結果的には暴君により利用された後に殺されてしまう。
 こうやって物語を外から眺めると、暴君の成立に関して、全員がそれなりの責任がある事がわかる。見て見ぬふりをした人でさえ、それなりの責任がある事が理解できる。国を滅ぼす様な暴君を阻止するには、全ての人がそれぞれの立場で、高潔に振る舞う必要があったのだ。もしクラレンスが、夢の中では理解していた弟の狡猾さや残虐さと、目覚めている間に正面から向き合う事が出来ていれば。また、もし、ヘイスティングが良心に従って、自身の政敵と和解か、それに至らないまでも認め合う様な友情を育てる事が出来ていれば。それから、もし、ブラッケンベリーが牢の鍵を渡す事を拒否していれば。物語を変える力はこれらの、全ての「もしも」を必要としただろうけれど、一つの違う流れが次の違う展開を呼んだ可能性は十分にある。
 また、シェイクスピアは、権力闘争の最後に、民衆によって支持されて王位に就くリチャードというものを描きこんでいる。史実はさておき、なぜ民衆の承諾という場面を描く必要があったのか。一般民衆は権力や王位とはほぼ無関係なのに。つまり、描く必要が特にあるとは思えない。
これは、国という大きな集団を統治するという政治力学においては、構成員である国民は民衆の一人ひとりに至るまでの全員が無責任ではいられませんよ、とのシェイクスピアからの叱咤なのか。あるいは、群衆心理というものの恐ろしさを、シェイクスピアが深く理解していて、権力者は選挙権のない民衆であったとしても彼らが放つ群衆の力からは自由ではいられないぞ、という警告なのか。
 そういえば、貞観政要には「君は船なり、人は水なり」とあり、民衆は君主を浮かべる事もできるし、転覆させる事もできる、と説いている。
現実に照らすと、安倍政権からの自民党政権は、舟に乗っている人だけが私腹を肥やす事に注力している間に、劣化した舟がじわじわと浸水して沈んで行くのを見せられている様に見える。水の方が舟を転覆させる程の嵐を起こしている訳ではなく舟の方が自壊している。それでもなお、浸水をなかった事にしてやり過ごそうとしている。腐って痛んだ船底を張り替えずに浸水から目を逸らしていればどうなるのか、舟は沈むしかない。
 いずれにせよ、どちらの物語も、民衆と為政者の関係は切り離す事は出来ないと示している。そうなると、この社会で水の一滴、民衆の一人として取るべき責任とは何なのだろう?スタグフレーションに耐え、円安に耐え、それでも社会を支え続けるという事か。気が重い。でも、やらねば。そして返す刀で、盲目的に現状の舟を浮かべ続けるのではなく、どんな舟を浮かべたいのか、舟の修理や新造船を含めて、水が水の立場で考えてもいい、為政者を教育したり取り替えたりしてもいい、そうする責任があるのだ、と貞観政要を解釈しようと思う。