オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

ドライブマイカーは文学の映像表現だと思う

映画ドライブマイカーは村上春樹の小説世界そのものでした。映画版ノルウェイの森は、ストーリーはなぞられていたけれど、原作の世界とは何かが違っていました。ドライブマイカーは、原作とはストーリーは違うのに、どこがこんなにも村上春樹ワールドなんだろう?と思って、もう一度観ました。私に見えるのはもちろん俳優や、その背景の映像だけですが、映像に映り込んでいない全てのスタッフが、村上春樹作品に深く傾倒している事が感じられました。だって、そうでなかったら、あの、現実離れした独特の言い回しの台詞を、説得力を持っては扱えないでしょう。

 そもそも、誰かに何かを話しかけられて、少し間を置いてから「ああ、そうしてくれ」なんていう人物が、実在するかの様な立体感を持つのは村上春樹ワールドだけです。あの、独白と言ってもいいような、文体の美しさを保ったままの台詞を映画でやれば、棒読みのうざったい芝居になってしまうか、そうでなければ、台詞を削って印象的な俳優の表情や背景による映像で表現するしかない。その後者の道を行ったのが映画ノルウェイの森なんだろうけれど、そうすると、やはり文体の美しさという村上春樹ワールドの大切な要素を取り落としてしまう事になる。世界が変わってしまう。まるで第ニバイオリンのいないオーケストラの様に。

 ドライブマイカーでは、文体を大切に扱っていました。それは、おそらくとても困難な事だったのでしょう。寡黙な人物が訥々と話し始める、あるいは劇中劇の稽古中に役者に感情を消してセリフを棒読みさせる、あるいは日本語話者ではない人物がゆっくり丁寧に日本語を話す、などという方法で、あの独特の、独白棒読み調のセリフを、すっと観客に馴染ませる事に成功していました。何だか、文学の映像化という凄い試みの映画を見てしまった気がしました。

 優れた文学は、読み手が受け取るメッセージがそれぞれ違っていて、違いの振幅が大きいほど名作とされるのだと思います。村上春樹先生の文学は、あの美しいリズムを刻む文体が核になっていると感じるのだけれど、どうして世界的に読まれる文学なのだろう?外国語に翻訳された瞬間から、日本語の文体が壊れているはずなのに。と、これまで不思議に思っていた答えを、映画ドライブマイカーが教えてくれました。人間の、深いところから生まれてくるボイスは、活字文体だけでなく、棒読み調子のセリフ、韓国語訛りの日本語、声を使わない韓国語手話、どの道を通っても、その本質を損なう事なく表現出来るのですね。

 作者が意図した以上の何かを感じとったり学んだりするのは読者の特権ですが、映画ドライブマイカーから、深いところにあるボイスに触れるのは、どの言語でも、或いは言語ではない手話を持ってしても可能なのだという事を学びました。まるで、張良が沓を拾って履かせる事によって黄石公から兵法の奥義を授かった様に。とはいえ私が受け取ったのは奥義ではないのでしょうが、村上先生のいう、全ての魂が繋がっているという地下二階へ行って帰って来る、という不思議な体験が映画で出来た時間でした。何度でも、読むように観たい映画です。