オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

天寿は全うしなければ

 高齢者の集団自決なんて発想が、常軌を逸していると思わない人がいる事に、驚いた。

ヒトはいつか死ぬ。それでも不老長寿は人類の見果てぬ夢だったし、人は他人の長寿を寿いできたのではなかったのだろうか。いつから長寿が社会悪になったのだ?

 老化する事、死ぬ事について考えてみようと思う。

長く生きていると、老化は避けられないし、老衰というのは、生を全うした人の神々しい人生の終わり方だと思う。

老衰死が、病死とは明らかに違う印象を受ける事は、立ち会った事のある人は首肯していただけると思うが、あれは、その時がやって来ると、不意にこの世から肉体だけを置いて行ってしまうだけの、余りにもあっさりとした儀式の様なものなのだ。残された者達は、あまりの呆気なさに拍子抜けしてしまう。そして大抵の場合、その時は選ばれている様にみえる。遠くに住む家族が会いにくるのを待っていたり、お気に入りの主治医が夏休みに入る直前だったり、何かこう、死ぬ時を選んでいる様に思われて仕方がない。残された者が勝手にそう解釈しているだけなのかも知れないが、逝く人からの愛として受け取っておくのが有限の命を営む者同士としての礼儀だと思っている。

 老衰死に至るまでは、しわしわになった手で、痛くて歩けないと恨む膝で、それでも力強く暮らしていかないといけない。私はその生き方は美しいと思う。私も赦されるのなら、そんな風な晩年がいいなあと憧れる。

彼らは、とても見応えのある表情を見せてくれるのだ。診察室で主治医としてお迎えする時、医者に頼って甘えたい気持ちと、人生の先輩としての矜持がくるくると入れ替わる表情を見せてくださる。それだけで一片の詩、一本の映画になりそうに思うが、それはその人の90年だかの人生が詰まっているから物語の重みとしては当然なのかも知れない。

 早う死にたいわ、とか言いながらお元気にされていると、周囲の人達は、この笑顔を守る為に今日も頑張ろうと思う。集団自決なんかされたら、こちらがウサギの様に寂しくなって死んでしまうだろう。

 老人の眼差しには、我々若輩者が決して見ることのできない景色が見えているのだ。集団自決しろ、なんて息巻いていた気鋭の若造にさえ、彼がもし老人になれたら違う景色が見えるはずで、そこから見える景色について語って欲しいと思う。

 どんな人も天寿を全うする義務があると思う。大丈夫、ほっといても何十年かすれば、誰だって死ぬんだから。