オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

リチャード3世のブラッケンベリーにならない為に

今週のお題「かける」書き出すより、書き終わる方が難しい。
 いつだったか、空中遊泳が出来ると豪語する人が、あれはね、浮いた後に降りてくるのが難しいんだよ、とか言っていたとかいなかったとか。捻くれ者の私は、だったら一生浮いておけ、と、読者の身分で悪態をついていたものだった。
 ともあれ、空中遊泳も、文章を書く事も、やめ時が難しい事おいては同じということか。
 逃げ回っているうちに、オファーは来なくなったが、私は口演というものがとても苦手だ。双方向の会話は問題ないが、口演となると、言葉が出てこなくなるのだ。吃音で困っている人はこんな感じなのだろうか?とたまに思う。今のところ、他の仕事に支障がないから、克服する気にもなれず、まあいいやと思っている。
 ところで、何故、言葉が出てこなくなるのだろうか?と考えてみた。単なる緊張?でもない様に思う。言葉が出てこなかったらどうしよう?という焦りと、焦るとまた、言葉が紡げなくなる。つまり、吃音でお困りの方の、そのままの状態だ。
 自分の事ながら、カラクリが知りたい。
書く時と、話す時に、使っている脳領域が違うのではないかと仮説を立ててみた。文章を書く時にうごかすのは頭と手だけ。話す時には、頭も使うし、発声する為に、声帯の筋肉も呼吸筋も使うし、自分の声を調整する為に聴力も使う。マルチタスクである。だからなのか?
うーん。それだけでもない様に思う。頭の中の、言葉の引き出しから文章を起こすのは容易いが、声に出し始めると、引き出しの滑りが悪くなる感覚なのだ。会話程度なら引き出しの奥の方に用事はないので問題にはならない。逆の人もいるだろう。話すのは簡単で、文字にするのは難しいと感じるような。
 私は漫画を読むのも苦手だ。それも関係あるかも知れない。絵を見ながら、同時にセリフを読んで物語を理解する。絵の理解鑑賞と台詞の理解を同時進行させるなんていうダブルタスクを、どうして小さな子供から、あんなに簡単に出来るのだろう。ヒトの能力とは不思議なものだ。私には、漫画を読むのはとても疲れる。漫画の文章は、ほとんどが台詞、つまり音声として認識しないといけないからなのだろうか?文章だけの本の方が、余程簡単に物語の中に入り込んで愉しむことができるのだ。我ながら、変な造りの頭だ。
 私は音読も苦手だ。音読を始めると文章の意味が解らなくなる。声を出すという能力と、文章理解の能力が切り替えスイッチになっていて、どちらかしかできない様な感覚なのだ。
 そういえば、読書中に文章を読み上げる声が聞こえるか?という質問に対して、聞こえると回答したのが8割以上で、聞こえないのは2割以下だったらしい。そしてもっと面白い事に、読書中に声が聞こえないなんてありえない、とか、聞こえるなんてそれは幻聴だ、とかお互いに共感し合えないそうだ。
 ここまで考えて、読書中に声が聞こえる人は漫画を読むのが得意で、朗読や演説も得意なタイプなんじゃないか、と思いいたった。
 そうすると、近年の我が国の総理大臣は、内なる声が聞こえないタイプで、だから原稿がないと演説できないのではないか?と考えられる。演説上手の志位さんとか、辰巳孝太郎さんらは、逆に読書中に内なる声が聞こえるタイプなのでは?と勝手に予想してみた。質問してみたいが、残念ながら一市民の私の声なぞ、届くまい。
 とはいえ、どちらにしても私達が暮らすこの社会で、近年の政治家に求められているのは、演説の上手さなどではなく、テレビ映りの良し悪しというタレント性だけであり、後はテレビマンの編集の腕にかかっているという、1984の世界、ビッグブラザーの支配するディストピアそのものあるいはその先なのでした。更に悪い事に、ジョージオーウェルも描いているが、ビッグブラザー側に居る人間、テレビマンや総理大臣のスピーチライター達が、自分達が作り出し維持しようとしている世界がディストピアであるという事に、余りにも無自覚であり、ビッグブラザー側にいるという支配階級としての自覚も矜持もないまま、さらなる権力を渇望する一方で左遷に怯え、キョロキョロしているだけという悲喜劇を、砂被りで見せられているこの社会。このままこの先、どんな未来が待っているのか?
 いくつかの暗示は、物語の中にあるかも知れない。
シェイクスピアの『リチャード三世』には、ブラッケンベリーという人物が描かれている。ブラッケンベリーは、リチャード3世が狡猾な方法で、兄のクラレンスを幽閉したロンドン塔の長官である。長官であるブラッケンベリーは、リチャード3世が、暗殺者をロンドン塔へ向かわせた時、クラレンスが幽閉されている牢の鍵をあっさりと渡してしまう。そうすれば弟のリチャード3世によって兄のクラレンスが殺されてしまうと、理解していながら。そして、彼の独白。「それがどういうことか仔細は問うまい。その意味から私は無実でありたいからな」。
 この、ブラッケンベリーの、矜持のかけらもない狡猾で無責任な行動の結末は、周り回って、あの有名なリチャード3世の絶命であり、その間に、保身に走ったブラッケンベリー自身の人生も含めて、全く関係のないはずの市井の隅々の人々に至るまで巻き添えになり、社会的、文化的な損害は甚大なものとなった。
 あの時、ブラッケンベリーが自身の正義を貫いていれば、物語はまた違ったものになった筈なのだ。
 私達は、この社会の一員である以上、誰かのブラッケンベリーなのだと思う。「その意味から無実で」いられる、社会的行為など一つもないのだ。
先日、そんな人の凡庸さにつけ込んで、とんでもない犯罪を犯してしまった犯罪集団の幹部達がフィリピンから日本へ送還されたらしい。リチャード3世側の幹部が逮捕されたとて、ブラッケンベリーとしての実行犯達の、その罪が無くなるわけではなかろう。
シェイクスピアが暗示したのは、理不尽な事、自分の良心に照らして良くないと思う事は、致しません。と言い張って居ないと、気がついた時には、社会の崩壊や犯罪に巻き込まれる未来なのだと思う。
 明日から、良心が咎める仕事はきっぱり断ろうと思う。これまでもやりたくない仕事はそっと断っていた私が言うのもなんですが。