オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

エゴサーチと匿名の功罪

ラジオを聴いていたら、森口博子さんと土屋レオレオが、エゴサーチで盛り上がっていました。人気商売って大変だなあ。ふと、心配になって、自分の名前を入れてグーグル検索してみました。

いくつかは正しくて、いくつかは別人のものでした。ほっとするやら寂しいやら、変な気持ちになりました。

 以前に、ムロツヨシさんのトークショーを観に行った事があります。私は時間を間違えて、随分と早くに会場に着いてしまい、「受付はまだです、前で待たれても困ります」と、けんもほろろな門前払いをされて、はて困ったと会場の前でしばしぼんやりしていました。そこへ、マネージャーさん?と二人で現れた、ムロツヨシさん。私は嬉しくなって、「あら、ムロくん。」と、声をかけてしまいました。

私と目が合ったムロツヨシさん。取引先の上司を見るような目で私を見て、微かに困った顔をされました。私は、はっとして、「ムロさん、頑張って下さーい。」と、相互の人間関係はないですよ。単なるファンですよアピールをして手を振りました。ムロさんは、少しほっとした様な笑顔を浮かべて通り過ぎて行きました。

こういう、私はあなたの事は知らないけど、あなたは私の事を知っているという不均衡な人間関係がもたらすものは、かくも人の心を疲弊させるものなのかと、ムロさんを気の毒に思ったのでした。

 そんな不均衡な人間関係の中で生きていくのに必要なのは、ペルソナなのではないかと思いました。仮面、あるいは多重人格的なもの。芸能人であれば、芸能人としてのペルソナを装着して仕事をし、プライベートな人格は庇護しておく。リアリティーショーが出演者達の心を蝕むのは、プライベートな人格を無防備なままに不均衡な人間関係の中に放り込む事がもたらす危険性をきちんと理解していないから防げないのではないかと思います。世界中で、リアリティーショーの出演者が自殺に追い込まれたりしているというのに。

あるレベルを超えて不均衡な人間関係に晒されつづけた無防備な人格は、疲弊なんかでは済まされない損傷が起こる事を知るべきだと思う。

 ついでに、一般人が匿名で発信するべきなのも、この点だと思うのです。匿名で言いたい事言うなんて許せない。って怒ってらっしゃる有名人の方は、自分は耐えて頑張っているのに、なんだお前らは、とお思いなのでしょう。けれど、ペルソナを使い分けてプライベートな人格を庇護するのは、組織的な力や、あるいは個人的に強い信念の力を必要としていて、普通は無理なんですよ。そこで、匿名、ハンドルネームというペルソナを装着する。簡易防御だけれど、当面なんとかなるのものです。

 匿名で、誹謗中傷をしてしまう人も、もちろんいますが、それはまた違う次元の問題で、それは、テレビの前でひとり悪態をつくのと、人前でその悪態を開陳してしまう事の違いを、分かっていないのか、わざと混同させているんじゃないのかと想像します。お風呂に入る時はもちろん裸で問題ないけれど、公衆の面前ではきちんと服を着ていないと、それは公然わいせつです。だから、匿名で誹謗中傷する人を見かけると、公然わいせつ犯を見てしまった様な不快感を覚えるのでしょう。

 それから、ハンドルネームというのは、職種や性別や、その他諸々の属性を離れて、一人の大人として言いたいことが言えるのが面白い。もちろん、発言する場への敬意は前提で。