オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

実在のピカールと架空の大岡越前

ドレフュス事件

1894年当時のフランスでは、売国奴ユダヤ人を庇っていると非難される事を恐れた軍部が、ドレフュスを非公開の軍法会議において証拠不十分のまま裁いた。ピカール中佐は、ドレフュスの無実を示す証拠を発見。再審を求めるが、国家的なスキャンダルを恐れた軍部は隠蔽しようとする。

 ポランスキー監督が、ドレフュス事件を映画化したという事で。美しい映像がとても楽しみです。『オフィサー・アンド・スパイ』

 ところでピカールは、清廉潔白な人物だった訳ではなく、何人もの人妻を愛人とした様な人だったようですし、ポランスキー監督は、未成年との淫行で逮捕された事もある。また最近では、性加害で告発された監督の過去の作品を褒めただけで、彼を擁護するのか、と攻撃される映画評論家の方もいて...。本当に複雑で難しい問題です。歴史を変える様な偉業を成し遂げた人物が清廉潔白である事は少ないし、その必然もない。但し、犯した罪があるならばきちんと裁かれるべきだとも思う。

さらに群衆の側も、国家主義、組織を守るための隠蔽、差別的偏見、それらと闘うのはとても難しい。なぜなら、誰の中にも、それらの芽を見つけることが出来そうだから。煽動され熱狂してしまう素因は、誰の心の中にもある。

政府に忖度するマスコミ、煽動される国民。日本版ドレフュス事件が起こる可能性は今もあると思うと、とても恐ろしい。

ドレフュス事件から、私達が感じとるべきは百年以上も前から、人間の本質は変わらないという事なのでしょう。私達一人ひとりは、誰もが少しずるくて悪人で、誰もが少しずつ正義感と優しさを持ち合わせている。現実には、ベニスの商人に出てくるシャイロックの様な悲劇的に強欲なユダヤ人も、大岡越前の様に真に英雄的なお代官様もいない。そんな中で、煽動される群衆にならないために出来る事とは、何度でもあらゆる物語を通っておく事。小説を読むでもいいし、映画を観るでもいい。これからの時代を生きていくのには、数多くの物語が必要なのだと思います。一つだけであってはいけない。

 物語の力を深く理解している、作家や監督が拡げる風呂敷の中に、ひととき身を委ねてみようと思います。ついでに、ゾラの「居酒屋」、「ナナ」も読み返してみようと思います。昔に読んだ時とは、手触りの違う物語が拡がる事を期待して。


 以下、備忘録として

Robert Harrisがピカールの逝去100周忌を記念してニューヨークタイムスのオピニオン欄に書いた「The Whistle-Blower Who Freed Dreyfus」という記事を北村隆司さんが訳された文。アゴラより。

 

1894年当時の彼は、優れた頭脳に恵まれ、将来を期待される陸軍将校の出世街道であった陸軍大学校の教授も経験したエリートの一人であった。
その陸軍大学校時代の教え子に、ユダヤ系の砲兵大尉のアルフレッド・ドレフュスがいたのである。
多くの将校仲間と同様、ユダヤ人にやや偏見を持っていたピカールは、参謀本部でただ一人のユダヤ人であったドレフュスが、ドイツに機密情報を漏洩していた疑いがあると聞かされても特に不思議には思わず、捜査官の求めに応じてドレフュスの筆跡を提供することにも疑問を抱かなかった。
筆跡鑑定の結果ドレフュスの容疑が固まり、そんな事とは露知らない昔の弟子を、目立たないように手早く拘束して刑務所に送り込んだのもピカールであった。
12月に入って行われたドレフュスの軍事裁判には、ピカールも正式オブザーバーとして出廷した。国家機密に拘るこの裁判は秘密法廷とされ、ドレフュスの有罪をを証明する明白な機密情報があると告げられたピカールは、この証拠書類を秘密裡に裁判官に提出すると言う決定にも同意していた。
1895年1月5日に、この証拠書類が決定打となって終身刑に処せられたドレフュスは『ユダヤ人に死を!』と叫ぶ2万人の群集の目の前で、軍刀をへし折られ、階級章を軍服から引き剥がされた。
この様子を見ていたピカールは、同僚の将校に向かって『彼がユダヤ人だと言う事を忘れちゃだめだよ。彼は今、軍刀の金製の紐の目方とそれがいくら位で売れるかを考えているに違いない。』と平然と言ってのけた。
3月になると、ドレフュスは南米の仏領ギアナ沖のディアブル島にに送られ、刑務官との会話を含む全ての人間との接触を禁じられる事となる。
一方ピカールは、その6ヵ月後に40歳と言うフランス軍最若年の若さで大佐に昇進し、ドレフュスの罪状証拠等を集める統計課と言うこじんまりした情報部門の責任者に任じられた。
この課のエース的な秘密捜査官に、ドイツ大使館で掃除婦を務めるマリー・バスティアンがいた。ドイツ大使館付き武官であったマクシミリアン・フォン・シュワーツコッペン大佐の屑篭を手に入れ、その屑篭からドレフュスの筆跡だと断定された詳細メモを見つけた事が、ドレフュスの有罪の決め手となった功績を挙げたのも彼女である。
ピカールが新任務について9ヶ月が経った頃、バステイアンはシュワーツコッペン大佐が40回もちぎった、俗に『プチ・ブロー』と呼ばれる空圧式の電報紙を持ち込んで来た。早速これを繋ぎ合わせてみると、シュワーツコッペン大佐がフランス軍の現役将校であるマリー・シャルル・フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジ少佐から秘密情報を得ている事が判明した。
これを知ったピカールは、即座にエステルアジ少佐を監視下に置いて観察すると、酒好き、博打好きに、それに加えモンマルトルの娼婦とねんごろになり借金で首が廻らないなど、典型的なスパイの横顔を備えている事が分かった。
問題はそれに留まらず、参謀本部員になるための願書を提出するなど、職務面でも無視できない活発な動きを示していた事も判ってきた。
これが気になったピカールは、エステルアジの手紙とドレフュスの有罪の決め手となった詳細メモの筆跡を比べて見て、腰を抜かさんばかりに驚いた。ピカールはこの事について『この二つの筆跡は、似ているどころか全く同じものであった。』と後で述懐している。
ピカールはその翌日、筆跡判定の権威者で彼の鑑定結果がドレフュスの有罪を決める助けとなったアルフォンス・ベルティロンに筆跡鑑定を依頼した。
鑑定を終えたベルティロンは、二つの筆跡が完全に一致すると認めながら『これはユダヤ人が誰かにドレフュスの書き方を訓練した結果に過ぎない』として、前回のドレフュス筆跡の鑑定を覆す必要は全くないと主張したという。
次にピカールは、ドレフュス事件の裁判の判事に送られた秘密情報の再検収を試みた結果こんな証言をしている。
『私は、この任務について初めてこの事件の機密証拠を手に取り調べてみて、仰天した事を告白しなければならない。私が期待していたのは動かす事の出来ない有罪の証拠であったが、事実はその逆で、証拠らしいものは全く見つからず、薄っぺらな証拠らしきものがあっても、それはでっち上げに過ぎなかった。』
ピカールはこの事実をフランス軍参謀長のラウル・ボアデッフル将軍と情報部長のシャルル・ゴーンス将軍に報告したが、二人の反応はドレフュスの再審に結びつくような活動は避けるようにと言う驚くべきもので『たった一人のユダヤ人が、悪魔の島(ディアブル島)に幽閉されたからと言って、お前にどんな関係があるのか?』と言うゴーンス将軍には『そうは言われましてもドレフュスは無実ですから』と答えるしかなかった。
彼はそれでも屈せずに、上司のイライラを無視して調査を続けたが、2ヵ月後にはその仕返しとして情報部の任務を解かれ、1897年の春には生まれ故郷のチュニジア派遣部隊に転勤を命ぜられた上、生還の可能性も少ない南部サハラ作戦への従軍を命じられる事となった。
25年に亘る軍人生活を続けたピカールは、事ここに至って軍の外部に訴える事に腹を固め、オーグスト・ケストナー上院副議長にエステルアジの裏切り行為の証拠を手渡した。
そして、1897年の末にはエミール・ゾラが主宰する有名な暴露欄である『吾、告発す』に掲載して貰う目的でゾラに一連の情報を提供した。
この行為に対してピカールが軍から受けた『褒賞』は、軍職を剥奪されると同時に、書類改竄と言う冤罪をかぶせられ1年以上に亘り独房に収監される羽目にになった。
1906年になってやっとドレフュスの冤罪が晴れ、ピカールも名誉を回復し准将として陸軍に復帰する事になった。
そしてその年の秋には『吾、告発す“J’Accuse …!”』の発刊元の新聞社のオーナーで、ドレフュスの無実を信ずるピカールの仲間であったジョルジュ・クレマンソーがフランスの首相に就任すると、ピカールは国防大臣に任命されその後3年間その地位に留まる事となった。
第一次世界大戦勃発の6ヶ月前に当たる1914年1月18日、フランス陸軍第二方面軍司令官であったピカールは、乗馬事故で顔面浮腫を患い(事実上の窒息死)享年59歳でこの世を去った。
何人もの人妻を愛人としながら生涯を独身で通した彼には、彼の記憶を引き継ぐ家族もなく、軍部の多数派は彼を同僚を裏切った人物と見做して決して彼を許そうとしなかった。
そればかりか、ドレフュス支持者の中にまで、彼を『反ユダヤ主義者』だと攻撃する者も居るなど、ピカールの人生は生前も没後も歴史の狭間をすり抜けた不思議な人物であった。
今尚、ピカールがあれ程勇敢に闘った数々の不義、不正(本来的に信用出来ない秘密裁判所や機密証拠、自らを法律の様に振舞うならず者の様な情報機関職員の危険性、理性より感情的に反応する政府、自分の誤りを本能的に隠蔽しようとする国家情報機関、民主的な監査を抑圧しながらのさばる国家安全保障など)は健在である。
クレマンソーが『ドレフュスは被害者であるが、ピカールは英雄である』と述べた通り,彼の命日である1月18日には、ピカールに敬意を表するだけの価値は充分ある。