オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

理想のナワバリと中華思想

今週のお題「わたしの部屋」

 

子供の頃は、自分の部屋を持っている友達が羨ましくて羨ましくて、焦げそうでした。

大人になり、一人暮らしを始めると全部が自分の部屋。トイレもお風呂も寝室も、全部自分の部屋。そう思うと、こども時代の反動で嬉しさが高じ、縄張りを拡げる事に成功した猫の様に、意味もなくウロウロした事もある事を白状します。

「私の部屋」とはつまり平たく言うと、ナワバリという事ですか。私は閉所恐怖症の向きがあって、カプセルホテルはテレビで紹介されているのを見るだけで息が苦しくなる。ところが、いつだったか団体旅行先で広ーい部屋に一人で割り当てられた事があり、広すぎて落ち着かなくて眠れませんでした。人間一個体としてのナワバリは広すぎてもだめなようです。

 ところで広大なナワバリを持っていた人物として、中国の皇帝が思い浮かびました。彼の個人としての寝室は体育館よりは狭かったとは思いますが、皇帝としてのナワバリはご案内の通り、「大陸の半分」位の広さでした。そして、中華思想というのは王家の威光が同心円状に広がって段々と薄れて化外の野蛮な土地に至るという考え方ですが、あまりにも広いナワバリだと、辺縁はどうしたって支配も興味も手薄になってしまうのはとても自然な事です。そう考えると「広すぎて遠すぎて端の方はよくわからん」というのがナワバリの広さの理想であり、限界なのでしょう。それが現代では、移動手段の高速化やインターネットによって時空は狭くなっているので、もはや中華思想が花開くだけの時空の確保は難しいのかもしれません。

 中華思想が面白いのは、広すぎる所以なのか、辺縁の国が普段は好き勝手していても取り敢えず臣下の礼だけはきちんとしておけばそれでお互いよしとする、素晴らしく洗練された文化的なやり方だというところです。臣下の朝貢に対して皇帝は、朝貢の品よりもずっと高価な物を下賜する、という朝貢外交の仕組みも面白い。朝貢よりも価値の高い金品を下賜するという所が勘所です。朝貢より下賜品の方が貧相だったら王家の威光はなくなりますから。

高価な物をあげた方が支配側、というのは個人の関係でもそうです。だから、物をもらうときはその事をきちんと意識しないといけないし、逆に誰かに贈り物をする、食事をご馳走する時もその点の気遣いが必要になってくるのですね。

端っこの方はよく分からん程の広さのナワバリは望めないとして、自分のナワバリが狭いと感じた時も、気をつけなければいけないでしょう。それを拡げる事は、誰かのナワバリを侵略する事になる可能性を配慮しないと戦争になってしまうから。

 ところで、下町風の住宅が立ち並ぶ道では、どう見ても公道と思われる道路に植木鉢がみっしり並んでいて、気がついたらそのお宅の向かいの線路脇だの川岸の一部だのが、そのお宅のお庭かのように実効支配されているのを見かけます。あれは、ナワバリを少しずつ拡げているのか、実効支配の形なのか?そこまで不穏な意図はないとしても面白い習性だと思います。その習性の研究を社会学者の先生やって下さらないかしら?人間の本質が浮かび上がってきたりして。