オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

春のうららの中年の危機

 退職していく人、部署移動で遠くに行く人、転職していく人。去っていく人。春はいつだって、なんだか寂しい。若い頃は寂しさに打ちのめされそうになったものだが、年の功で感傷的な寂しさは受け流せる様になった。大人は、旅立ちや卒業や、花が散るぐらいで感情的になっている暇はないのだ。

 都会の大きな駅で構内を歩いていると、スーツ姿で花束を持っている人を見かけた。ああ、送別会なのか。背格好からして転勤かなあ?慣れ親しんだ職場を離れるに際して今はとりあえず寂しいだろう。

そう、彼は、検察事務官なのだ。この度、副検事試験に合格して、事務官を辞めて副検事として出発するのだ。事務官としてのキャリアは終わった事になる。出世レースから抜けられる身軽さと、だからと言って検事と同等の大きな仕事は出来なくて小さな案件をこなして行くだけの職務だし、それも自分に出来るのだろうか。そんな風に絡まっていく気持ちを、送別会で貰った花束の香りが解きほぐしていく。自分で選んだ道だから、進むしかない。深呼吸して、力強く踏みしめるように階段を登る。その背中は、とても可憐だ。頑張って。

 とかなんとか勝手に想像を膨らませる。これは私の悪い癖で、人の特徴をつらつらと(捏造で)描写する、一人妄想ごっこなのだが、本人には失礼なのでもちろん秘密にしている。

 大人は感傷的にはならないが、旅立つ人を見ると焦りが湧いてくるのだ。自分は何をやっているんだろう?とにかく毎日忙しくしているだけで進歩がない気がしてくる。自分は何者にもなれていないのに歳だけとってしまった。その上、老いのせいなのか?頭の回転があからさまに落ちている事に愕然とする。こんな調子であと何年仕事を続けられるのだろうか?あの人もこの人も、眩しい活躍を続けているのに、自分は何をやっているんだろう。

 そうか、これが中年の危機というやつか。

中年の危機とは、嫉妬心なのかもしれない。そんな嫉妬にはキリがない。それなりに成功した人でも、上には上がいるから。憧れの職業に着いたとして、夢を叶えたとしても、なってしまえばそれは日常だから、それ以上の活躍をする人、あるいは選ばなかった方の自分の人生への嫉妬心が沸いてきて、きりがない。

プロ野球選手になっていたら、私は大谷翔平さんに嫉妬していただろうか。

え?大谷翔平さんに嫉妬?と考えてから、私は嫉妬心から解放されたのでした。

 中年の危機の乗り換え方とは、自分とはかけ離れた遠い所にいる人物に嫉妬してみるのがいいかもしれない。馬鹿らしくなって、日常のありがたみが腑に落ちるから。

 

ストイックなスーパースターが意味するもの

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」大谷翔平さんや藤井聡太さんの偉業は、フィクションを超えていると巷間言われています。本当に、こんな物語は、アニメでも小説でも、プロットの時点で提出した即日に却下されるでしょう。現実味がない、とかなんとか叱られて。

 何十年か前のスーパースターは、アスリートでも歌手でも、煌びやかで奔放な印象だったと記憶している。ちょっと悪ぶってみたり、派手で豪華絢爛な生活を強調してみたり。それが今やスターは、その人が拠り所とする特定のスポーツやアーティスト業や将棋に人生を賭けて努力するのみならず、思慮深く人類愛に満ちたコメントをなさるのだ。本当に素晴らしい人格者なのだと尊敬する一方で、昔のスターが人格的に劣っていた、とも思えない。今のスター達が、もしも30年早く生まれていたら、やはり金のネックレスとか、大きなダイヤのピアスとかしていた様に思うのだけれど。なぜ時代が変わっただけで、キャラクターがこんなにも変わってしまうのだろう?

先行世代のスター達がバッシングされるのを見て育った、世代としての処世術なのだろうか?それだけではない様に思う。やはり、スターは民衆の願望の合わせ鏡なのだ。だから、派手な高級ブランドの服を着てスポーツカーを乗り回し、一晩で何百万円ものお金を使い豪遊する。それがスターだと民衆が考えていたから、スター達はそうしてきたのだろう。では、ストイックに練習し研鑽を積む生活をして、メディアの前で口を開く時は格言をもたらす、それがスターだと現在の民衆が考えているということなのか。

 ストイックなスター達、贅沢や豪遊はしない(訳ではないのだろうがとりあえず民衆には見せない)。そんなスター像とは、何を意味するのだろうか?と考え込んでしまった。

昔のスター達は、豪遊するところを見せて、お前も頑張ってここまで来れば、こういう贅沢が出来るんだぞ、這い上がって来い。というエールを発していた様に思う。現在のスター像が発しているメッセージは、凡人には辿り着けない凄みに満ちていて、諦めの方が先にきてしまう。ストイックに努力を続けられるという忍耐力や能力も含めて天与の、育った環境と才能なんだから、それを持たぬ者は夢を持つことさえ難しいという諦念のススメに受け取ってしまう。

 スター達によって人類があらゆる記録を塗り替え続けているのは事実だが、それは豊かな世界へ進化しているのか、民衆の中に諦念と無力感が蔓延する世の中へと退化しているのか、よく分からなくなってきた。

 

 

 

 

 

 

桜の森の美しさにぞっとする

 満開の桜の森の下に歩きこむと、あまりの美しさにぞっとする。特別に人がいない満開の桜の下では、背筋が凍る思いがする。あれはいったい何なのだろうか。

 桜の美しさの「ぞっとする感じ」を物語に移し替えたものがその物語なのか、物語を読んでしまったから桜を見るとぞっとするのか、どちらが先なのかは、もうわからないが、いずれにせよ桜を見ると、その美しさの深遠に、何かを見つけてしまう。

 

桜の森の満開の下

坂口安吾の傑作と言われる短編小説。

美しい女と山賊の男の物語。

山賊の男の目線で紡がれるのは、下賤の者、けもの同然の男の心には理解を超えた何か、についての物語。

 男は下賤の者だが本物の獣ではなく人間だから、桜の森の下で「何か」に気がつきそうになる。けれど、怖くなって桜の森から逃げ出してしまう。

 そんな男は、美しい女を手に入れる。その事により、男の心はさらに獣から離れていく。

『男は不安でした。どういう不安だか、なぜ、不安だか、何が、不安だか、彼には分らぬのです。女が美しすぎて、彼の魂がそれに吸いよせられていたので、胸の不安の波立ちをさして気にせずにいられただけです』

 なんだか分からないけど、理解しなければいけないものがそこにはある、という焦りの様な知性への渇望と憧憬が生じてしまうのだ。男は、獣にはない人間としての知性を自分の中に見つけてしまった。

『女は、身の廻りを清潔にさせ、家の手入れを命じます。その着物は一枚の小袖と細紐だけでは事足りず、何枚かの着物といくつもの紐と、そしてその紐は妙な形にむすばれ不必要に垂れ流されて、色々の飾り物をつけたすことによって一つの姿が完成されて行くのでした。男は目を見はりました。そして嘆声をもらしました。彼は納得させられたのです。かくして一つの美が成りたち、その美に彼が満たされている』

 自然が作ったものではなく、人間の手で作り出された、それも自分が作り手の一部となった美を愛でる事により、男はさらに獣の心から人間へと、移ろっていく。その様は可憐な調子でとても美しい。

『彼には驚きがありましたが、その対象は分らぬのです。』

『怖れは恐怖ではなく、知らないということに対する羞恥と不安で、物知りが未知の事柄にいだく不安と羞恥に似ていました。』

 男が獣の心と人間の知性の間で揺れ続けている間に、女が男を説得して都に行く事になる。

都とは、獣の住む山に対比して、知性ある人間の住む所というメタファーなのでしょう。

 都では、男は懸命に自分の中に芽生えた知性を理解しようと、けれどいまだに獣の心のままで理解しようともがきます。何故なら都の人達は、彼を犬の様に、つまり下賤の獣として扱うからでした。知性を持った人間として扱ってくれる人がいれば、男の知性は可憐に花開いたやも知れません。

 そうしている間に、知性的な美しさの象徴であった筈の女は、美を通り越して、グロテスクな欲望をひたすら走らせて行きます。ある日、男は女の欲望にきりがない事に、何かが違っている事に気がついてしまいました。けれど、どう違うのか表現する事が出来ません。

『あらゆる想念が捉えがたいものでありました。そして想念のひいたあとに残るものは苦痛のみでした』

 男は、都を出て山へ帰ることにします。苦しい想念を抱える位なら、知性を捨てて、伸びやかで自由だった獣に戻ろうとします。

その頃には、女は男なしでは生きていく事が出来なくなっていました。女のグロテスクな欲望に付き合ってくれるのは男しかいないからでした。

『男は女の一部でした。女はそれを放すわけにいきません。男のノスタルジイがみたされたとき、再び都へつれもどす確信が女にはあるのでした。』

 二人の思惑は多少ずれているにせよ、山へ帰る事にします。そして、途中の満開の山の桜の森の下で、男は女を殺してしまいます。

『ほど経て彼はただ一つのなまあたたかな何物かを感じました。そしてそれが彼自身の胸の悲しみであることに気がつきました。花と虚空の冴えた冷めたさにつつまれて、ほのあたたかいふくらみが、すこしずつ分りかけてくるのでした。』

 悲しみを理解した男は、その代償として美しい女の命を差し出してしまっていた。その悲しみが男の命を終わらせたのか、或いは男も女も、そもそも最初から誰もいないのに、桜の花びらが降り積もる様がそう見えただけの物語なのかもしれない、という終焉を迎えるのです。

桜の森の満開の下の秘密は誰にも今も分りません。あるいは「孤独」というものであったかも知れません。』

 桜の森の満開の下でぞっとするのは、美しさを愛でる事を通り越した先にはグロテスクな欲望があり、キリのない欲望の果てにあるものは孤独である事を、降り積もる花びらが語ろうとするから?

 今年も、ぞっとする程に美しく桜が咲き始めました。

 

 

 

詰めは甘くても脇は締めて、それが甘い人の生きる道

今週のお題「あまい」詰めが甘い、脇が甘い、甘い親、甘いお菓子、甘い言葉。これらの反対語を考えてみると、面白い事に気がつきました。用意周到である、脇を締める、厳しい親、辛いお菓子、厳しい言葉。「甘い」の反対語なのに、全部違うのです。なんで??

 チコちゃんか、金田一先生に質問してみたいですが、聞いてもらえるとは思えないのでよしておきます。それはそれで、詰めが甘い私の人生そのものの気がしてきました。

 ひとりの、詰めの甘い人の半生を振り返ってみようと思います。その人は子供の頃から本だけは大好きで、それだけの理由で、ガラクタを含めて知識だけは山ほど持っていたので、特別に何もしなくても学校ではそこそこの成績でした。また、何でも素早く理解する事は出来るが、どんどん進んでいく思考に自分でも付いて行けないので、まるでシャッタースピードの合わない写真の様に出力はブレてしまうのです。出力が荒くてブレているので、試験ではもちろん満点は取れない。それで、そういう子供がどうするかというと、もちろん努力の勉強や練習はしない。及第点は難なくとれるので、完璧である事にこだわらない限りは、努力する必要がないのです。そしてそんな風に努力をしない子がどうなるかと言うと、途中から勉強についていけなくなって、学問の世界から脱落していきました。とはならず、意外と勉強そのものが楽しくなってしまい、推理小説を読む様な感覚で数学の問題を解き、物理学では世界の秘密を知ってしまった様な高揚感を感じたりしているうちに、気がついたら博士号を取得するまでに学問の世界に漬かって、かなり長湯をしてしまいました。そうなのです。勉強は、温泉の様に温かくて楽しいものなのです。現代国語に至っては、学校で重厚な小説が読めるのですよ、しかもテスト中にまで。何という贅沢でしょう。

 ところで、そんな甘っちょろい人も大人になり、社会人として、プロとして仕事をするとなると話は別なのでした。見落としやミスは許されない。これはどの業界でもそうだと思うのですが、詰めの甘い人にとってはプロの世界はとても生きづらい世界なのです。もちろんできる事なら藤井聡太さんみたいに何手先も緻密に確実に読み切って間違いのない手を打ちたいとは思ってはみるのですが、どうしても出来ないのです。こうして、詰めの甘い人は完璧を求められる仕事というものを前にして、途方に暮れることになりました。

しかしある時、光が差し込みます。詰めの甘い人が組織に混ざり込むことはあり得ると、先人達は既に気がついていたのです。そのため、絶対にミスが許されない業界では、逆説的にミスは許容されているのでした。いえ許容はされていませんが、ヒューマンエラーはあるものだとして制度設計されているのです。その事を知った時に、詰めの甘い人は、人生が明るくなった様に感じたものでした。ダブルチェックの仕組み、ハインリッヒの法則をあらかじめ計算に入れてヒヤリハットのミスをお互いに共有する仕組みなどは、本当に上手く出来たシステムです。 

 こうして、どうにか仕事人を続ける事ができる詰めの甘い人でしたが、その人は脇も甘いのかと言うと、意外とそうでもないのです。詰めの甘い人が社会を生き抜くには、ぽろぽろと取り落とす玉石混交のもの達を、側にいて拾ってくれる人が死活的に必要なのだから、そういう人を見つけ出す嗅覚だけは特別に優れているのでした。友人も上司も、家族だって運がいいだけでは説明がつかない程に素晴らしい人達ばかりなのは、きっと、出会った瞬間にぐっと脇を締めて、邪悪な人を自分のナワバリから排除しているのだと思います。或いは邪悪な人のナワバリから、さっさと逃げ出すか。その、邪悪なものを嗅ぎ分ける嗅覚たるや、本人も気がつかない素早さと正解さを備えているのでした。

 という訳で、詰めの甘い人には完璧を求めてはいけません。そんな事すると、締めすぎたネジが壊れる様に潰れてしまいますので。でも大丈夫。本田宗一郎藤沢武夫がいて、気弱な足利尊氏に、剛腕な弟、直義がいたように、拾ってくれる人、ネジを緩みなく適切に締めてくれる人は、必然的に現れるのですから。

 皆さま、いつもいつも、本当にありがとうございます。

 

 

 

西村賢太の私小説、エゴンシーレの自画像

特別お題「今だから話せること」自分の胸の中だけにしまっておこうと決めていた事の一つや二つ、誰にでもあるのでしょう。時が過ぎ、甘酸っぱい若さが蒸発した頃にふと、それほど大した事ではなかったと思える様になる。そうなるまでにはどうしたって歳を重ねる年月が必要なのでした。その後さらに時が経つと、忘れられなくて苦しかった想いさえ、忘却の優しい霧に包まれていくのです。それは老年期の楽しみのひとつで、それでいいと思う。それが普通の人生だと思うのです。真実は時に劇薬で、強い感情は、それが愛であれ憎しみであれ後悔であれ、生のままではエグ味が強すぎるから、発酵させるか甘く煮詰めるために、とにかく時間が必要なのです。時間をかけて熟成させた暁に、それはようやく青春として懐かしんで愉悦できるようになるでしょう。まだ熟成が足りない様なら、そっと仕舞って置くのがいいのでしょう。

 時間の代わりに、優れた私小説は文学という形で、芸術的な自画像は絵画という技術を潜らせる事によって、生々しくて苦い、人生の真実が持つ毒を中和させる仕組みとして機能していると思います。

 西村賢太は、その私小説と呼ばれる作品も凄かったが、随筆集は、輪をかけて凄いのです。あれが、架空の物語ではなく彼の人生の現実だったのかと思うと、読者は心が抉られる様な気持ちになるのでした。中卒で家を出て、人足労働で日銭を稼ぐ。飲めない体質の15歳が、飯屋でビールを添える事を覚えて、嘔吐する。それからの、意地の買淫。父親が性犯罪者だという事を片時も忘れる事はなかったという、自分の中にあるかもしれない暴力的な犯罪志向という遺伝に対する恐怖。小説よりも淡々と語られる壮絶な物語は、淡々とした調子ゆえに、読む者の感情移入を頑なに拒むのです。その徹底した感情移入の拒絶によって、読者は逆説的に物語に絡め取られてしまう、読むのをやめられなくなってしまうのでした。15歳の子供の不安や世間に対する恐怖心と、若い男の強靭な生命力が同居する不思議な世界へ。中卒という、文学からもっとも遠いところにいるはずの青年が、古本をひねくり回しているだけで身につけたという、あの独特の文体。その文体の腕力にぐるぐる巻きにされてしまう様な、どこにもない読書体験となるでしょう。

 エゴンシーレの自画像も、見る者を自分の心を抉られる様な感覚に落とし込みます。生と死が繋がっていて、性欲と背徳感も繋がっていて、普通の人はそんな事忘れてのほほんと暮らす事ができるのに、戦争にも振り回され、最期はスペイン風邪に命を落とした、才能があるがゆえのシーレの生きづらさを、自画像を見る事で追体験させられるのです。

 西村賢太先生が急逝してしまった時、どきりとした読者は多かったと思います。西村賢太は、エゴンシーレが夭逝したのと同じ運命だったのかと。やはり、真実の内面の物語や背負っている業というのは、文学や芸術を潜らせたとしても、晒さない方が魂の安全は計られるのだろうかと怖くなったのでした。

 それでも人は、私小説を書きたがり読みたがる。エゴンシーレの自画像を鑑賞したがる。それはフグ毒の解毒に失敗し、食べて死んでしまった先人を見て、それでもフグを食べようとし続ける、人間の奇習のようなものかもしれません。

つまり、上手くやれば毒入りのフグも美味しく食べられるのです。

 私小説、自画像というのは、読む者観る者の、心の一番柔らかくて繊細な所がえぐれる様な気持ちにはなるが、それでも魂の安全を計りながら、それぞれの人生の真実、真実の毒を嗜んで呑みくだす方法であると信じたい。

 

 

天寿は全うしなければ

 高齢者の集団自決なんて発想が、常軌を逸していると思わない人がいる事に、驚いた。

ヒトはいつか死ぬ。それでも不老長寿は人類の見果てぬ夢だったし、人は他人の長寿を寿いできたのではなかったのだろうか。いつから長寿が社会悪になったのだ?

 老化する事、死ぬ事について考えてみようと思う。

長く生きていると、老化は避けられないし、老衰というのは、生を全うした人の神々しい人生の終わり方だと思う。

老衰死が、病死とは明らかに違う印象を受ける事は、立ち会った事のある人は首肯していただけると思うが、あれは、その時がやって来ると、不意にこの世から肉体だけを置いて行ってしまうだけの、余りにもあっさりとした儀式の様なものなのだ。残された者達は、あまりの呆気なさに拍子抜けしてしまう。そして大抵の場合、その時は選ばれている様にみえる。遠くに住む家族が会いにくるのを待っていたり、お気に入りの主治医が夏休みに入る直前だったり、何かこう、死ぬ時を選んでいる様に思われて仕方がない。残された者が勝手にそう解釈しているだけなのかも知れないが、逝く人からの愛として受け取っておくのが有限の命を営む者同士としての礼儀だと思っている。

 老衰死に至るまでは、しわしわになった手で、痛くて歩けないと恨む膝で、それでも力強く暮らしていかないといけない。私はその生き方は美しいと思う。私も赦されるのなら、そんな風な晩年がいいなあと憧れる。

彼らは、とても見応えのある表情を見せてくれるのだ。診察室で主治医としてお迎えする時、医者に頼って甘えたい気持ちと、人生の先輩としての矜持がくるくると入れ替わる表情を見せてくださる。それだけで一片の詩、一本の映画になりそうに思うが、それはその人の90年だかの人生が詰まっているから物語の重みとしては当然なのかも知れない。

 早う死にたいわ、とか言いながらお元気にされていると、周囲の人達は、この笑顔を守る為に今日も頑張ろうと思う。集団自決なんかされたら、こちらがウサギの様に寂しくなって死んでしまうだろう。

 老人の眼差しには、我々若輩者が決して見ることのできない景色が見えているのだ。集団自決しろ、なんて息巻いていた気鋭の若造にさえ、彼がもし老人になれたら違う景色が見えるはずで、そこから見える景色について語って欲しいと思う。

 どんな人も天寿を全うする義務があると思う。大丈夫、ほっといても何十年かすれば、誰だって死ぬんだから。

 

 

リチャード3世のブラッケンベリーにならない為に

今週のお題「かける」書き出すより、書き終わる方が難しい。
 いつだったか、空中遊泳が出来ると豪語する人が、あれはね、浮いた後に降りてくるのが難しいんだよ、とか言っていたとかいなかったとか。捻くれ者の私は、だったら一生浮いておけ、と、読者の身分で悪態をついていたものだった。
 ともあれ、空中遊泳も、文章を書く事も、やめ時が難しい事おいては同じということか。
 逃げ回っているうちに、オファーは来なくなったが、私は口演というものがとても苦手だ。双方向の会話は問題ないが、口演となると、言葉が出てこなくなるのだ。吃音で困っている人はこんな感じなのだろうか?とたまに思う。今のところ、他の仕事に支障がないから、克服する気にもなれず、まあいいやと思っている。
 ところで、何故、言葉が出てこなくなるのだろうか?と考えてみた。単なる緊張?でもない様に思う。言葉が出てこなかったらどうしよう?という焦りと、焦るとまた、言葉が紡げなくなる。つまり、吃音でお困りの方の、そのままの状態だ。
 自分の事ながら、カラクリが知りたい。
書く時と、話す時に、使っている脳領域が違うのではないかと仮説を立ててみた。文章を書く時にうごかすのは頭と手だけ。話す時には、頭も使うし、発声する為に、声帯の筋肉も呼吸筋も使うし、自分の声を調整する為に聴力も使う。マルチタスクである。だからなのか?
うーん。それだけでもない様に思う。頭の中の、言葉の引き出しから文章を起こすのは容易いが、声に出し始めると、引き出しの滑りが悪くなる感覚なのだ。会話程度なら引き出しの奥の方に用事はないので問題にはならない。逆の人もいるだろう。話すのは簡単で、文字にするのは難しいと感じるような。
 私は漫画を読むのも苦手だ。それも関係あるかも知れない。絵を見ながら、同時にセリフを読んで物語を理解する。絵の理解鑑賞と台詞の理解を同時進行させるなんていうダブルタスクを、どうして小さな子供から、あんなに簡単に出来るのだろう。ヒトの能力とは不思議なものだ。私には、漫画を読むのはとても疲れる。漫画の文章は、ほとんどが台詞、つまり音声として認識しないといけないからなのだろうか?文章だけの本の方が、余程簡単に物語の中に入り込んで愉しむことができるのだ。我ながら、変な造りの頭だ。
 私は音読も苦手だ。音読を始めると文章の意味が解らなくなる。声を出すという能力と、文章理解の能力が切り替えスイッチになっていて、どちらかしかできない様な感覚なのだ。
 そういえば、読書中に文章を読み上げる声が聞こえるか?という質問に対して、聞こえると回答したのが8割以上で、聞こえないのは2割以下だったらしい。そしてもっと面白い事に、読書中に声が聞こえないなんてありえない、とか、聞こえるなんてそれは幻聴だ、とかお互いに共感し合えないそうだ。
 ここまで考えて、読書中に声が聞こえる人は漫画を読むのが得意で、朗読や演説も得意なタイプなんじゃないか、と思いいたった。
 そうすると、近年の我が国の総理大臣は、内なる声が聞こえないタイプで、だから原稿がないと演説できないのではないか?と考えられる。演説上手の志位さんとか、辰巳孝太郎さんらは、逆に読書中に内なる声が聞こえるタイプなのでは?と勝手に予想してみた。質問してみたいが、残念ながら一市民の私の声なぞ、届くまい。
 とはいえ、どちらにしても私達が暮らすこの社会で、近年の政治家に求められているのは、演説の上手さなどではなく、テレビ映りの良し悪しというタレント性だけであり、後はテレビマンの編集の腕にかかっているという、1984の世界、ビッグブラザーの支配するディストピアそのものあるいはその先なのでした。更に悪い事に、ジョージオーウェルも描いているが、ビッグブラザー側に居る人間、テレビマンや総理大臣のスピーチライター達が、自分達が作り出し維持しようとしている世界がディストピアであるという事に、余りにも無自覚であり、ビッグブラザー側にいるという支配階級としての自覚も矜持もないまま、さらなる権力を渇望する一方で左遷に怯え、キョロキョロしているだけという悲喜劇を、砂被りで見せられているこの社会。このままこの先、どんな未来が待っているのか?
 いくつかの暗示は、物語の中にあるかも知れない。
シェイクスピアの『リチャード三世』には、ブラッケンベリーという人物が描かれている。ブラッケンベリーは、リチャード3世が狡猾な方法で、兄のクラレンスを幽閉したロンドン塔の長官である。長官であるブラッケンベリーは、リチャード3世が、暗殺者をロンドン塔へ向かわせた時、クラレンスが幽閉されている牢の鍵をあっさりと渡してしまう。そうすれば弟のリチャード3世によって兄のクラレンスが殺されてしまうと、理解していながら。そして、彼の独白。「それがどういうことか仔細は問うまい。その意味から私は無実でありたいからな」。
 この、ブラッケンベリーの、矜持のかけらもない狡猾で無責任な行動の結末は、周り回って、あの有名なリチャード3世の絶命であり、その間に、保身に走ったブラッケンベリー自身の人生も含めて、全く関係のないはずの市井の隅々の人々に至るまで巻き添えになり、社会的、文化的な損害は甚大なものとなった。
 あの時、ブラッケンベリーが自身の正義を貫いていれば、物語はまた違ったものになった筈なのだ。
 私達は、この社会の一員である以上、誰かのブラッケンベリーなのだと思う。「その意味から無実で」いられる、社会的行為など一つもないのだ。
先日、そんな人の凡庸さにつけ込んで、とんでもない犯罪を犯してしまった犯罪集団の幹部達がフィリピンから日本へ送還されたらしい。リチャード3世側の幹部が逮捕されたとて、ブラッケンベリーとしての実行犯達の、その罪が無くなるわけではなかろう。
シェイクスピアが暗示したのは、理不尽な事、自分の良心に照らして良くないと思う事は、致しません。と言い張って居ないと、気がついた時には、社会の崩壊や犯罪に巻き込まれる未来なのだと思う。
 明日から、良心が咎める仕事はきっぱり断ろうと思う。これまでもやりたくない仕事はそっと断っていた私が言うのもなんですが。