オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

ストイックなスーパースターが意味するもの

今週のお題「投げたいもの・打ちたいもの」大谷翔平さんや藤井聡太さんの偉業は、フィクションを超えていると巷間言われています。本当に、こんな物語は、アニメでも小説でも、プロットの時点で提出した即日に却下されるでしょう。現実味がない、とかなんとか叱られて。

 何十年か前のスーパースターは、アスリートでも歌手でも、煌びやかで奔放な印象だったと記憶している。ちょっと悪ぶってみたり、派手で豪華絢爛な生活を強調してみたり。それが今やスターは、その人が拠り所とする特定のスポーツやアーティスト業や将棋に人生を賭けて努力するのみならず、思慮深く人類愛に満ちたコメントをなさるのだ。本当に素晴らしい人格者なのだと尊敬する一方で、昔のスターが人格的に劣っていた、とも思えない。今のスター達が、もしも30年早く生まれていたら、やはり金のネックレスとか、大きなダイヤのピアスとかしていた様に思うのだけれど。なぜ時代が変わっただけで、キャラクターがこんなにも変わってしまうのだろう?

先行世代のスター達がバッシングされるのを見て育った、世代としての処世術なのだろうか?それだけではない様に思う。やはり、スターは民衆の願望の合わせ鏡なのだ。だから、派手な高級ブランドの服を着てスポーツカーを乗り回し、一晩で何百万円ものお金を使い豪遊する。それがスターだと民衆が考えていたから、スター達はそうしてきたのだろう。では、ストイックに練習し研鑽を積む生活をして、メディアの前で口を開く時は格言をもたらす、それがスターだと現在の民衆が考えているということなのか。

 ストイックなスター達、贅沢や豪遊はしない(訳ではないのだろうがとりあえず民衆には見せない)。そんなスター像とは、何を意味するのだろうか?と考え込んでしまった。

昔のスター達は、豪遊するところを見せて、お前も頑張ってここまで来れば、こういう贅沢が出来るんだぞ、這い上がって来い。というエールを発していた様に思う。現在のスター像が発しているメッセージは、凡人には辿り着けない凄みに満ちていて、諦めの方が先にきてしまう。ストイックに努力を続けられるという忍耐力や能力も含めて天与の、育った環境と才能なんだから、それを持たぬ者は夢を持つことさえ難しいという諦念のススメに受け取ってしまう。

 スター達によって人類があらゆる記録を塗り替え続けているのは事実だが、それは豊かな世界へ進化しているのか、民衆の中に諦念と無力感が蔓延する世の中へと退化しているのか、よく分からなくなってきた。