オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

幻のレイコー

今週のお題「冷やし◯◯」
二十年くらい前の、とある職場。外回りから帰ってくる人達の、額に汗が滲むようになる季節。そんな日には、やはり冷たいものが欲しくなります。
M氏「そういえば、和歌山に用事で行ったら、
『冷やしでんだい始めました』っていう貼り紙してる喫茶店があったんですよ。びっくりしちゃった。」
K氏「そうだよ。和歌山は奥の方に行くほど、言うだけじゃなく、書いちゃう。でんだいがぜんざいが訛ったものだって分かんなくなるのかなあ?ついでに、冷蔵庫はレイドウコ、座布団はダブトン、全部はデンブだよ。だから、あなたの全部が好き、は、あなたの臀部が好き、になるんだぜ。」
M氏「ははは」
お愛想を込めた笑いが起こり、しっかりその場は冷やされたのでした。そして、この話に続きがあるのは、その雑談に加わる事なく聞いていたのが、いつもいい仕事をするキレキレ秘書係がいたから。彼女は、いつも冷蔵庫にお茶を準備してくれていますが、普段はアイスコーヒーなんてありません。 そんな冷蔵庫に、翌朝
「冷やしレイコー始めました」
と書いた紙がぶら下がっていました。もちろん、昼過ぎには取り去られてなくなっています。
ディープ大阪では、アイスコーヒーの事をレイコーって言うのを知っていないと、冷やしレイコー、のグダグダっぷりは伝わらないし、冷やしデンダイのくだりを聞いてないと何の事かわからない。で、こういうのは解説すると面白くないから、さっと流す。さすがキレキレ秘書係。
 それにしても、幻の、冷やしレイコー。飲んでみたかったなあ。色々と脱力して疲れが取れそうだし。

白井聡先生の面白さは、太田胃散のよう

知識人といわれる先生方が、社会をどのように理解しているのか知りたいけど、難しい学術用語とかは苦手なんだなあ、という人に、勝手におススメする一冊
 長期腐敗体制(角川新書 白井聡

134ページより
二〇一九年二月の国会で、アメリカのトランプ大統領(当時)をノーベル平和賞に推薦する云々の話で、野党議員から突っ込まれたことがありました。「あんなにとんでもない言動で悪名高い人物をノーベル平和賞に推薦するのはおかしいじゃないか」などと言われ、安倍氏はこう答えました。「米国は日本にとって唯一の同盟国であり、その国の大統領には一定の敬意を払うべきだろうと思います。御党も政権を奪取しようと考えておられるのであれば」、と。

 この事件というか出来事は私も覚えています。これを聞いて、安倍政権への尊敬や連帯感は更に不可逆的に損なわれたなあ。この、他人を嘲笑する人特有の憎々しい顔つきとか、嘲笑された人(野党議員)が持ったであろう苦々しさは必ず伝染するから、どちら側が伝染したとしても、嘲笑する側とされる側に分断してみせる以外の効果はなくて、つまり国民の代表としては最悪のやり方だな、ああ、不愉快だ。と思う位が私の限界でした。
 この出来事に対して白井先生がなんと解説しているか、というと

まず「米国は日本にとって唯一の同盟国である」の「唯一の」には、深い孤独が滲んでいます。
中略
さらに「その国の大統領には一定の敬意を払うべきだろうと思います」は、大変な問題発言です。なぜなら、トランプ大統領に本当は敬意を払っていない、と言っているに等しいからです。
中略
一方でこの発言は、非常に情けない発言でもあります。「アメリカに媚びも売らずに、政権をとりたいと思っているの?」という意味でもあるからです。アメリカに媚びを売る必要がある、もっと端的に言うならば、「属国なんだから汚い靴を舐めるのも当たり前だろ!」と、ここまで堂々と言ってのけた日本の総理大臣もいないでしょう。

こんな感じで、なんせ、とっても面白い。もやもやしていたのが、すっきりしました。まるで、ジャンクフード食べ過ぎの胃もたれに苦しんでいる時の太田胃散のよう。
というのはメタファーで、本当の食べすぎにはAM散がお勧めだけれど。
 白井先生の著書、国体論、武器としての資本論も面白かったけれど、読みやすさ、首肯レベルとしては、この新作が、面白いっ。

ドライブマイカーは文学の映像表現だと思う

映画ドライブマイカーは村上春樹の小説世界そのものでした。映画版ノルウェイの森は、ストーリーはなぞられていたけれど、原作の世界とは何かが違っていました。ドライブマイカーは、原作とはストーリーは違うのに、どこがこんなにも村上春樹ワールドなんだろう?と思って、もう一度観ました。私に見えるのはもちろん俳優や、その背景の映像だけですが、映像に映り込んでいない全てのスタッフが、村上春樹作品に深く傾倒している事が感じられました。だって、そうでなかったら、あの、現実離れした独特の言い回しの台詞を、説得力を持っては扱えないでしょう。

 そもそも、誰かに何かを話しかけられて、少し間を置いてから「ああ、そうしてくれ」なんていう人物が、実在するかの様な立体感を持つのは村上春樹ワールドだけです。あの、独白と言ってもいいような、文体の美しさを保ったままの台詞を映画でやれば、棒読みのうざったい芝居になってしまうか、そうでなければ、台詞を削って印象的な俳優の表情や背景による映像で表現するしかない。その後者の道を行ったのが映画ノルウェイの森なんだろうけれど、そうすると、やはり文体の美しさという村上春樹ワールドの大切な要素を取り落としてしまう事になる。世界が変わってしまう。まるで第ニバイオリンのいないオーケストラの様に。

 ドライブマイカーでは、文体を大切に扱っていました。それは、おそらくとても困難な事だったのでしょう。寡黙な人物が訥々と話し始める、あるいは劇中劇の稽古中に役者に感情を消してセリフを棒読みさせる、あるいは日本語話者ではない人物がゆっくり丁寧に日本語を話す、などという方法で、あの独特の、独白棒読み調のセリフを、すっと観客に馴染ませる事に成功していました。何だか、文学の映像化という凄い試みの映画を見てしまった気がしました。

 優れた文学は、読み手が受け取るメッセージがそれぞれ違っていて、違いの振幅が大きいほど名作とされるのだと思います。村上春樹先生の文学は、あの美しいリズムを刻む文体が核になっていると感じるのだけれど、どうして世界的に読まれる文学なのだろう?外国語に翻訳された瞬間から、日本語の文体が壊れているはずなのに。と、これまで不思議に思っていた答えを、映画ドライブマイカーが教えてくれました。人間の、深いところから生まれてくるボイスは、活字文体だけでなく、棒読み調子のセリフ、韓国語訛りの日本語、声を使わない韓国語手話、どの道を通っても、その本質を損なう事なく表現出来るのですね。

 作者が意図した以上の何かを感じとったり学んだりするのは読者の特権ですが、映画ドライブマイカーから、深いところにあるボイスに触れるのは、どの言語でも、或いは言語ではない手話を持ってしても可能なのだという事を学びました。まるで、張良が沓を拾って履かせる事によって黄石公から兵法の奥義を授かった様に。とはいえ私が受け取ったのは奥義ではないのでしょうが、村上先生のいう、全ての魂が繋がっているという地下二階へ行って帰って来る、という不思議な体験が映画で出来た時間でした。何度でも、読むように観たい映画です。

 

コロナ第7波どうでしょう

 発熱外来は、猛暑とゲリラ豪雨とで、まるで「水曜どうでしょうベトナム縦断の旅」の様な、懸命さと悲壮感がある点を通り越した時の、馬鹿馬鹿しい達成感とでも言えばいいでしょうか?そんな感じです。今回のオミクロンだかケンタウロスだかは、肺炎にはなりにくそうで、医療側としては緊急性を感じないのだけれど、患者側からすると、喉痛いし熱出るしどうにかしてくれと思うのでしょう。今回は、喉と頭が痛くなるのが特徴の様で、鎮痛剤を我慢せずに早めにきっちり飲んで、後は体力を温存するべく水分と睡眠を十分に確保して下さい、と説明しているつもりでも伝わってなくて、色々難しいです。

病院の前に並ぶ車の多さに、今回も何度か警察官が来ていました。けれども、近くに来たら感染するかもよ、という患者さんからの無言の圧力と、走り回る職員の鬼気迫る圧迫感のためか?遠巻きに見るだけで帰って行きました。相手出来なくてすみません、お巡りさん。そうこうするうちに、職員の一人が熱中症で足がつってへたり込んじゃうって事が起きて。こうなったらもう、水曜どうでしょう風に笑い飛ばすしかないでしょう。

こんな風に、当人達は真剣なのに必死になればなる程、馬鹿馬鹿しくておかしみが生まれるというのは、落語的な、いわゆる乗り越える知恵、ですね。

 もう一つ気付いたのは、平時ではない多忙を極める時に、いい働きをするのは普段から優秀とされる人だけではないという事でした。おそらく本人も、自分がこれ程仕事が出来るとは思ってなかった様な、どちらかと言うと、ごまめキャラだった職員がとてもいい働きをする。これは、本人にとっても組織にとっても素敵な発見でした。それから、偉い人なんかで普段はゆっくりしていて、そんなものだと現場が諦めているような人が、ここぞという時にトップスピードで働き始めた時の爽快感も、それはそれでとても心地良いものでした。

蟻の集団は、普段はある一定の割合の蟻がサボっているが、それはいざという時の余力を集団として残しておくという意味があるらく、集団知としては蟻も人間も尊卑の差はないのですね。

という訳で、今はとりあえず組織一丸で120%出力してますが、これから平時は私も、いざという時の為にとか言って堂々と、適宜手を抜こうと思います。

ところでそれはいつなんだろ?

 

 

 

 

思い出を、洗ってさっぱり出来るのか

今週のお題「最近洗ったもの」私は、洗濯オタクなのだろうか?。週に一度程度、シーツやトイレマットやテーブルクロスを洗うとなると、結局ほとんど毎日二回洗濯機を回す事になる。おそらく洗いすぎで、トイレマットの端が擦り切れてしまった。それでも使っているけれど。
 洗って、汚して、また洗う。洗濯は楽しい。何だか心も洗われる気がするから。けれど不思議なもので、元気な時に洗濯をすると気分まですっきりするのに、鬱状態だと疲労感が高まるだけで、気分は晴れないままなのだ。その昔、その事を理解出来ずに、落ち込んでいる友人をつかまえて、無心に掃除洗濯をする事を薦めてしまった自分の浅はかさを、今となっては後悔している。
 鬱状態というのは、バブルに似ていると思う。その最中にあっては気が付かないのだ。終わって初めて、ああ、あれが鬱ってやつだったのか、と腑に落ちる。いつ始まったか、いつ終わったか、はっきりしているようでそうでもない。そもそも、霧の中を歩いている様で記憶が曖昧なのが鬱やバブルの特徴なのかもしれない。どうせバブル時代の楽しさも、ただ浮かれてぼんやりしていただけで、その時の記憶は後付けで作られたものなのでしょうし。
 鬱から抜け出す方法は、宗教的な洗脳や、何かの中毒から抜け出す事と似ているのかもしれない。こうすれば、とかこの薬を飲めば必ず抜けられる、とも限らない。ただ、一生懸命に生きていれば、ある日振り返ると抜けている事に気がついた、とかいう参考にならない個人的な体験談が真実で、そこから普遍的な経験則や科学的な知見を取り出すのはとても難しい。洗ってさっぱり、なんて生やさしいものではない。けれども誰かがやらなければいけない。
私は精神医学は専門ではないので、参考にならないご都合主義の意見でしかないが、思い出は何度でも書き換えられるから、大丈夫だと思っている。脳の仕組みは、もともとご都合主義に出来ている。例えば、ベッドから落ちて目が覚めると、ブロック壁の上を落ちそうになりながらふらふら歩いていた夢を見ていたりする。あれは、落ちた衝撃と辻褄が合う様な物語を、頭の中で一瞬で作ってしまっているのだし、この、脳のご都合主義戦略はとてもしなやかで、面白い。
そうすると、思い出の方を書き換えてしまえばいいのか?という事になる。もちろん、事実や史実は変えられないし、書き換えてはいけないけれど、感情の記憶という思い出を書き換える事で、人生を楽しむ事は出来るのかも知れないと思う。
 さあ、今日もお洗濯を楽しもうと思う。
思い出も、洗ってさっぱり。
 

一軍目指して

今週のお題「二軍のTシャツ」一応Tシャツは持っているけどもちろん全部二軍で、一軍のTシャツなんてそもそもない。つまりTシャツで外出は出来ません。というのに共感してしまうのなら、まあまあなお年頃ですね。ふふ。
 スーツは、衰えた筋肉や、張りのない首筋をさりげなく隠し、戦闘能力の高い人格を演出する様に作られている、鎧兜の様なものです。それに比べてTシャツは、着る人そのものが見えてしまう。だから、Tシャツはビジネスや公の場にはそぐわない。防火服を着ないで消火活動に向かう消防士の様に頼りなく思えてしまうから。
ところが、ゼレンスキー大統領は違う。ウクライナ軍の兵士と同じという、オリーブグリーンのTシャツを着て、オンラインで国際会議にも出席した。しかし、その姿を見て、カジュアルに過ぎると感じた人はいないのです。物凄い事だと思いました。彼の引き締まった表情、美しく整えられたスポーツ選手の様な筋肉、ウクライナ軍のTシャツであるというメッセージは、ハイエンドなスーツを着こなす各国の要人と見劣りしないどころか、圧倒的な存在感を放っていました。さすが俳優、見せ方が賢くて美しい。恐らくゼレンスキー大統領の周囲を固めるブレーンも、映像としての見せ方を熟知している方々なのでしょう。この時期に、国民統合のアイコンとして彼を選んでいたウクライナ国民の思慮深さを尊敬します。ゼレンスキー大統領でなければ、時の大統領が国外逃亡、傀儡政権が誕生して、今やウクライナ全土がロシアになっていてもおかしくなかった事を考えると、政治家は本当に国民が全員で知恵を絞ってきちんと選ばないと、と改めて思いました。
 ところで、そう、一軍Tシャツです。つまりTシャツを着て外出でにるか、です。それには、たるんだ顎や、ぽっこりお腹をどうにかしてからでないと、当面無理ですねー。或いは、開き直って、デブも愛嬌、で乗り越えるか?うーん、客観的に言って、それは私の場合、ほとんど環境汚染だな。

沙汰の国の弁護士 

 ギリシャ神話には、それはそれはカラフルな神様が出てきて愛憎劇を繰り広げる。日本の古事記だって同じ。そんな小説書いたって誰も読まないよ、というくらいの変な物語が堂々と語られる。そもそも、兄妹のイザナキとイザナミが交わって、国を産もうとして最初の二神は流してしまった。そこで女神の方から声をかけたのが悪かったのかと考え婚姻をやり直して改めて国産みを開始する。そしてイザナミは次々と神を産むが、火の神を産んでしまった事で、焼かれて冥界に行ってしまう。続く…。
はあ?、こうなったら色々と深読みするしかないのか、という様な物語が続きます。そう、深読みするべき物語というより、そうでもしないと消化できない、変な物語なのです。
それから、例えば出雲大社に行くと、本殿の裏に何十もの小さな祠があり、様々な神様が祀られています。神様の業界でも上下関係や男女問題や、色々あるんだろうなあ、大変だなあ、でも八百万の神とはそういう事か、とか適当な事を言いながら、とりあえず手を合わせておく。お盆にはお寺でお坊様の説法を聞いて御仏に手を合わせる。そんでもって年末になるとメリークリスマス、とか言って盛り上がる。こういう寛容な態度は、とても日本的だと思います。日本の社会には、一神教のそれのような苛烈さはなく、寛容で、とてもとても優しい。この国の、八百万の神々の多くは、厳しい教えで民衆を導くというよりは、現世利益のお願い事を聞いてくれる、親バカみたいなフレンドリーな神様として語られる。恋愛成就の神社、なんて一神教の教徒が聞いたら、腰を抜かすか、頭を抱えるんじゃないか、と思います。平和すぎて。
 こんな宗教態度が主流の日本で、どうしてこれほど狭隘な教義の宗教が浸透したのか。この社会が、それほどにまでに生きづらいものになってしまっていた事を、私達大人が一人ひとりの責任としてどうやって引き受けてあげられるのか。
統一教会では、日本はサタンの国と言われている、そして信者は、脱会するとサタンの手に堕ちると脅されると、TVで紹介されていました。哀しいし、恐ろしい。ただ、救いだったのは、その問題と真摯に向き合い、闘って下さっている紀藤正樹弁護士はじめ、弁護士先生達の眼差しが、とても大らかで優しい事でした。それは、旧統一教会の会長の、冷たくて虚な眼差しとは対照的で、とても暖かくて力強い。
 そうでした。侮る事なかれ、我ら日本人は、八百万の神のおとな。子供ではなく大人です。大人の柔らかな微笑みでもって、異教や異国の文化をふんわりと包み込み、土着のものと馴染ませて消化吸収し、日本文化として花開かせてきた民族です。だから、教会で幸せになれなかったり、救われないと感じたら、社会に、あなたが思うサタンの国に出てきて欲しい。あら大変でしたねえ、とお互いに言いあって、同胞としてこの国で共に生きて行きましょう、大人同士として。大丈夫、紀藤先生もいて下さるし、この国はサタンの国ではなく沙汰の国ですから。それなりにちゃんと沙汰しますよ。