オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

ネロンガを飼い慣らす

今週のお題「マイベスト家電」

 公務員官舎というモノに少しだけお世話になったことがあります。あれは世間が思うような、議員宿舎みたいに立派なものではなく、築40年の骨董品みたいな建物で、バターンと凄い音を立てて閉まる鉄の扉、板張りの(フローリングではない)ダイニングに扉を隔ててこれまた板張りのキッチンが続く、団塊の世代が新婚時代に憧れた?様なアパートでした。その、築40年のアパートは、びっくりするほどコンセントが少なくて困りました。考えてみると、炊飯器、ポット、トースター、電子レンジ、コーヒーメーカー、その他。キッチン家電だけでもいくつも電源が必要です。40年前はこれほど電化製品を使っていなかったから、大丈夫だったのでしょう。令和に生きる私達は、どうにもこうにも電化製品にスポイルされてしまったものです。何も考えずに洗濯機を回しながらエアコンをつけて、ポットでお湯を沸かしつつ掃除機をかけたら、ブレーカーが落ちました。その時、これは建物側から見ると、電気を食らう怪獣が暴れている様なものなのかしら?とふと思いました。充分と考えられる電気を供給して分け合いながら、平穏に暮らしていたところへ、ものすごい勢いで電気を食らう怪獣出現。私はネロンガか?!そう、電化製品を物凄い勢いで使い倒す人は、ある意味ネロンガなのでしょう。
ネロンガとは、ウルトラマンに出てくる怪獣で、『普段は体全体が透明化および半透明化した状態で眼に見えないが、電気を頭部中央の太い一本角と左右に1本ずつある細い角で十分に体内に吸収した時だけ姿を現す。透明化は電子イオンの働きによるものかもとフジ隊員に推測されている。最大の武器は回転させた頭部の触角2本を前方に動かして鼻先の一本角に接触させてスパークさせて発射する電撃である(Wikiより)』。
普段は透明で見えないが、電気を食らうと見える様になって発電所を襲ったりする。とか。何だか色々と示唆的です。普段はおとなしくて居ても気が付かれないのに、常に電気を欲しがり、そして電気を食えば食うほど凶暴化する。
あれ?それって私達、大衆そのものではないですか?私達現代人は、既に電気がないと生活出来ない体になってしまっていて、さらに便利を目指してその電力消費量は増えている。
 電気料金が値上がりしたから、あるいは脅しの様に電力が逼迫するから節電要請だ、と言われると、どうにも反発したくなってしまう、あまのじゃくな私としても、少し反省しました。自分の中のネロンガが凶暴化しない為に、今日から少しずつ節電しようと思います。まずは、そうですねえ、テレビを消す所からでしょうか。でも、どうしても死守すべき家電は、やはりエアコンですね。
 日本の夏、クーラーの夏! 
いつからか、夏は楽しむものではなく乗り切るものになってしまいましたので。

タイムパフォーマンスがいいとか悪いとか

ライターの稲田豊史さんが、「映画を早送りで観る人達」で、映画やドラマなどの動画を初見で「倍速視聴」「10秒飛ばし」する事が習慣化している若者について書いている。
 もはや若者ではない私も、一時、撮り溜めしていたTV番組を見るのに1.2倍速とかで見ていました。音声もなんとか聞き取れるし、展開が早いので、頭の体操になるなあと思いながらやっていました。その時感じたのが、ハイヒールリンゴさんは普段から1.2倍速程度で話すので、それを1.2倍速にすると、何を言っているかわからない、というよりは話しが早すぎて理解が追いつかない。あの発語の速さと、口語とはいえ論理を組み立てる速さに改めて舌を巻きました。ぐるぐる。
 さて、稲田さんが掘り起こしたひとつには、かつてとは比べものにならないほど、若者が忙しい事があげられるそうです。お金はないが時間はあった、かつての大学生。今は大学の講義にもきちんと出席しないといけないし、仕送りも減っていて生活の為にバイトしないといけないから忙しい、のだそうです。牧歌的なものがない、と。考えてみると、若者でなくても、最近は、老若男女みーんな、どうにもこうにも忙しそうです。どうしてこうなったのでしょう?
 とある研究室の片隅にある古い顕微鏡に、フィルムカメラが固定されていた事を思い出しました。それを何に使っていたか考えると、昔は色々とやる事が多くて大変だったんだろうなあ、と思った事があります。今なら、顕微鏡の映像は隣のモニターに映し出されているし、綺麗な画のみ静止クリックして保存すればいい。フィルムカメラなら、現像が終わるまで、撮れているかどうかさえわからないという途方もない時間の無駄が生じていたはずです。
でもまてよ、便利になった分だけ仕事量は減って、お茶飲んでゆっくり出来るのか?と言うと、何故だかやる事は逆に増えていくのです。例えば、顕微鏡画像一つとっても、ただ細胞が見えればいいっていう時代から、様々なタンパク質を染色してしかも色分けして同時染色してみたり、発現量を定量してみたり、やる事は増える一方。結局、時間なんていくらあっても足りない。
つまり、進歩とは、その分だけ細分化され、手間が増えていくという事。医師国家試験の出題範囲も、年々膨大になっていて、おそらくひと世代前の医師が最新のイヤーノート(ほぼ全ての医学部生が持っている参考書)を見たら、そのページ数の膨大さに腰を抜かすと思います。これは、どの分野でもおそらく同じで、進化し続ける世の中ではやるべき事、学ぶべき事が多すぎる為に誰もが忙殺されていて、常に時間が足りない。勢い、タイムパフォーマンスなんていう考え方が生まれたりするのでしょう。若い人が忙しいのは、物理的に忙しいのだと思います。
 世の中の進歩に合わせて、仕事量は減るどころか、増えて忙しくなるという事は、機械化が進んだりAIが進歩して、人の仕事を奪うのではないかと心配するよりは、仕事が増えて忙殺される事を心配しないといけないという事でしょうか?
あれ?ラッダイト運動とか、シンギュラリティとか、何だったんだろうという結論になってきました。マルクスとかシュンペーターとか、ちゃんと勉強してこいって怒られそうだけど、でもだって、仕事が増えるのは事実なんですよ、困った事に。

参議院選挙が始まったらしい

 参議院選挙が始まったらしい。
私は大人だから、選挙には行く。
ところで、議員という職業が憧れの職業でなくなってから久しいと思うけれど、それはいつからなのでしょう?
私が大人になったから?、それだけではないと思います。尊敬できる人は、私の周囲に、テレビの向こうに、SNSの中に、大勢いる。尊敬する人の意見は、もっと聞いてみたくなってその方の本を買い求める日々は続くけれど、尊敬できる政治家は、どうしてだかとても少ない、哀しい事に。主流派の彼らの描く未来が、私には良きものにはとても思えない。隣国が攻めてくるかも知れないから軍拡する。巨大地震がそのうち来るというのに、外交努力の余地のある隣国の方が巨大地震より怖いのですか?未来を託すための子供達への本当の投資はしないのに、金融投資はしろという。そんなのがもたらすのは、住み良い社会ではない事だけは確かなんですけど。
私は、基本的には株式投資は、本当の意味での投資ではなく、パチンコと同じ賭け事だと思っているので、賭け事のヒリヒリする感じが好きな人はお好きにどうぞ、と思っている。それよりも、不労所得で生活している人の目を覗くと解る事だと思うけれど、労働の対価ではないお金というのは、邪気を含んでいて、人心を蝕む。お金の魔物に取り憑かれると言ってもいいかも知れない。金額が大きくなればなるほど、そのパワーは強くなり、魔物に魂を売り渡してしまう事になる確率は高くなる。お金の邪気に当てられて身を持ち崩した例は、見渡せばいくらでもいるでしょう。そんな、お金の邪気に当てられないために、たっぷりと税金を払う。税金を払うのは、国にお賽銭を払う様なもので、その事によって不労所得の邪気が払われて、有意義なお金の使い方ができる様になるという事であって、だからこそ金融所得税はたっぷり払えばいいと私は思う。その方が、今、お金で焼け太りしている人達の魂の救済にもなると思うけれど、そんな風に考える人は少数派なのだろう。
 そんな宗教じみた言い方をしなくても、お殿様に年貢を納める農民みたいなマインドセットから脱却して、自分達が自分達の責任で社会を作るために、誰を政治家として雇うべきか、と私は考えようと思っています。
そういうと、そんな事言っても、じゃぁ、今の野党に任せられるのか?ってわけ知り顔で言う人が、本当にたくさんいて、もうたくさんだ。と思っています。任せるんじゃないよ、頼りない政治家に頼りなく政治してもらって、民間の大人達全員で必死に支えていく社会の方がまだましなんじやないか、と私は言っているのですが。
収賄しようが首相に近ければうやむや、運が悪いと尻尾切りみたいな目に合って勾留される。検察は今や正義の味方でもなさそうに見えるし、公務員に自殺者が出てもうやむや。大阪から全国にはびこり始めた党は、不祥事をやらかしても、嘘をついても、コロナ死者数が全国ワーストでもマスコミが取り上げなければうやむや。そんな社会はもうたくさん、と思うのですが、それでも私がおかしいのかしら?
 という訳で、私は議員には、頼りなさそうな人に、というよりは、頼りない事を隠そうとしないだけの胆力のある人に投票しようと思います。それだったらその人の目を見ればわかるし。最近の映像技術を侮ることなかれ、いくら編集したって、その目に宿る人間性を映してしまうのですから。有権者の炯眼を舐めるんじゃないよ、を見せる選挙になればいいですね。

追悼 小田嶋隆先生

 小田嶋隆さんが鬼籍に入ってしまわれた。
昨日、センセイの書いた小説を読み始めた所でした。
 小田嶋センセイは、現代社会を鋭く批評、とか言われがちだけれど、やはり鋭さはどうしたって、鋭い刃を握るその人自身が傷つかないではいられないのか、センセイの著作は、年を追うごとにその痛々しさが募ってきていた様に思います。批判を先に予測しておいて切り返しておく、その言い回しから伝わる悲鳴に似た感触が、なんとも辛かった。読者の私達はただ、小田嶋センセイが、その深遠な見識を思う存分に振り回すさまを、刀の演舞を鑑賞する様に、うっとりと読んでいたかっただけなのに。だから、小田嶋センセイ、もっとのびのびと言いたい事を言って下さい。と、伝わるはずもない想いを、熱心な読者として抱えていたら、なんと、小説を書いたというではないですか。これは、想いが伝わったのか、と、小躍りして読み始めました。そしてそう、これですよ。事実のみを書くとか、変な気負いのない小田嶋センセイの物語が、しなやかにその羽を広げる。面白くない訳がない。
と思っていましたが、遺作になってしまったのかと思うと、しばらくは、センセイの不在が沁みてしまいそうで続きが読めそうもないです。
読み終わった時から、小田嶋センセイが言ってくださっていた様な事を、誰かが言い続けないといけなくて、それはあなた自身だよ、と説教されそうで怖いから。もちろん、小田嶋センセイの様な発信力や影響力を持つというのではなく、ひとりの大人のオジサンとして物を考え、社会と関わる事、その背中を見せて生きる事。
重たいですよ、センセイ。もうちょっと子供でいさせて欲しかったです。

猫に小判 私にドメイン

今週のお題「わたしのドメイン
 独自ドメインを取得できますよ。どうですか?と言われたら、何と答えようか考えておかないといけない時代なのでしょうか。大変な事です。何故なら、豚に真珠、猫に小判、私にドメイン、だから。
 猫に小判は、全くもって意味のない贈り物だけれど、
私に権力、とか、私に大金とか、どうなのでしょう。
 大河ドラマ鎌倉殿の13人は、権力への憧憬に取り憑かれた人々の姿を、美しい衣装と素晴らしい俳優陣で魅せてくれています。戦のない世の中にする為に戦を、なーんて本末転倒な理屈を誰もおかしいと言い出せない時代の空気は、実質賃金が下がって庶民の暮らしは苦しいのに、国の借金がーとか言いながら国民から更に年貢、じゃなかった税金をむりしとる現在の政権の横暴に重なりますし。西田敏行後白河法皇)は、死ぬ直前に、どうして平家は滅んだのだ?と言い、その寵妾、鈴木京香(丹後の局)が、あなたが望まれた事ですよと答える、その二人は、アベノミクスに失敗したのに、その責を微塵も感じてなさそうな元首相と、前政権への批判も反省も封じられている現首相に重なる。その後、鈴木京香丹後局)は、殺された恋人への想いを断ち切るという覚悟を持って入内を希望して来た大姫(南沙良)に向かって啖呵をきる。覚悟はおありか?と。権力は、それに近づこうとする者たちの執着心を栄養源にして、それ自体は肥大化し続ける。だから、権力を少しでも手にしたら、更なる権力が欲しくなり、手にした権力が大きい程、裏切りへの怯えが大きくなる。そんな権力という魑魅魍魎が住む京の世界で生き抜く覚悟を持て、と言いたかったのでしょう。しかし大姫は、それでは自分が望んだ生き方は出来ない。好きに生きるという事は好きに死ぬという事、と言って生きる事を手放してしまう。
大姫は、横暴を極める与党を傍観しているうちに、没落していく弱い立場の国民の姿なのかもと思うと恐ろしい。
私に権力は、手に負えるとは思えない。
では、私に大金は、どうだろうか。30億円くらいの金額なら、奨学金システムを立ち上げてちゃんと使いますよ、と思うけれど、300億円もあったら、多すぎて今度は色々と手に負えないかも知れない。
 つまり、私にドメインは、私に30億円、位のありがたさですね。手に入れてもいいかな。
ところで隣で、おネコ様が、え、小判?、うーん、一枚位なら貰ってやってもいーよ。ちゃいちゃいして遊べるし。と宣っておられますが。そういう事ですか、?。

祖父の本棚

今週のお題「本棚の中身」

 祖父は、普通の人だったが本が好きだった。正確には本が好きな自分が好きだったのだと思う。太平洋戦争に人生を狂わされた一人で、戦争がなければ、学者になりたかったのだろうか、貧乏でなければ太宰治の先生の様な、高等遊民の暮らしがしたかったのだろうか、果たして本当にそれほどまでの知性への希求があったのか、あった筈だと自分に言い聞かせていただけなのか、もうそれはわからないし、そういう事にしておいてあげたいと思う。 祖父の本棚には、数学と哲学の本が中心で仏教の本もあった。静謐に美しく並べられた、彼の本棚には、マルクス資本論とか、井伏鱒二全集や世界文学全集もあった。子供の頃の私は、それをただ眺めているのが好きだった。一等大事な仏像の写真集は触らせてもらえなかったけれど、他は読み放題だった。資本論は、最初の一行目で意味がわからずやめた。祖父も、あれは読まずに飾っていたのではないかと思う。世界文学全集は、気に入った題名や作者を選んで読んだ。スタンダール、トーマスマン、ポー、名前が簡単でなんとなく、手に取って読み耽った。薄張りの紙がかかっていて、外箱から出し入れするたびにすこし破れてしまって、バレたら怒られるかと思っていたが怒られなかった。つまり、大人は誰も触らないからバレなかったのだと思う。
 今でも、あの本棚の匂いを思い出す。紙とインクの優しく知的な香り、突き放す様なカビ臭さ。本棚の隅に小さく置いてあった、可愛げのないネコの置物。棚板に薄く積もった埃。
あれは知性への憧れの香りだったのだと思う。私も、ああいう本棚を持ちたいと思う。最近は、電子版を購入する事が増えて、少し後悔している。
 本棚、それは知性への憧れを飾り立てる場所なのだと思う。

夏のいいところ

今週のお題「夏物出し」
 夏は夜。より朝がいい。熱気と湿気が盛り上がってくる前の、未だ空が透明な青色の頃。人の気配のない通りに咲く朝顔も涼しげでよい。太陽が高くなり、じわりじわりと刺す日差しの元では、向日葵までも、ぐったりしてしまう。夏は、夜になっても、都会ではアスファルトがいつまでもいつまでも熱くて、ただひたすら辛い。
『家の作りやうは夏をむねとすべし 冬はいかなる所にも住まる』と、徒然草にはありますが、今の日本の夏は、暑きころわろき住まいは、堪え難き事なり、なんて言ってるのが呑気に思える程の酷暑なのですよ、兼好せんせい。
 ところで夏になると、冬の寒さが分からなくなるし、冬になると、暑いってどういう事だったのか思い出せなくなる。真夏に、ふと、しまい忘れたセーターが出てくると、よくもこんな暑苦しいものをと忌避したくなるし、冬に夏物のシャツを手に取ると、薄っぺらくて頼りなく思う。つまり、夏に冬の悪口を言うべきではないし、冬に夏の暑さに恋焦がれてもいけないと思う。
 もしかすると、吉田兼好徒然草のこの部分を書いたのが夏だったりして。それだから、夏の暑さがより辛く思えたのでしょうか。雪降る冬に書いていたら別の文章になっていた可能性もあるとかないとか。それはないか。
 ところで今は初夏。夏に恋焦がれても許されそうなので、夏のいいところを思い起こしてみました。暑い日の夕暮れの生ビール、実は全然涼しくないけど涼しげに見える浴衣、人混みと熱気でじっとり汗ばむ肌が不快な花火大会。あれ、いいところじゃないな。
結局、日本の夏は、クーラーの夏。エアコンさま様です。そのうちエアコンに感謝する祝日とかできたり、しませんね。