オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

思い出を、洗ってさっぱり出来るのか

今週のお題「最近洗ったもの」私は、洗濯オタクなのだろうか?。週に一度程度、シーツやトイレマットやテーブルクロスを洗うとなると、結局ほとんど毎日二回洗濯機を回す事になる。おそらく洗いすぎで、トイレマットの端が擦り切れてしまった。それでも使っているけれど。
 洗って、汚して、また洗う。洗濯は楽しい。何だか心も洗われる気がするから。けれど不思議なもので、元気な時に洗濯をすると気分まですっきりするのに、鬱状態だと疲労感が高まるだけで、気分は晴れないままなのだ。その昔、その事を理解出来ずに、落ち込んでいる友人をつかまえて、無心に掃除洗濯をする事を薦めてしまった自分の浅はかさを、今となっては後悔している。
 鬱状態というのは、バブルに似ていると思う。その最中にあっては気が付かないのだ。終わって初めて、ああ、あれが鬱ってやつだったのか、と腑に落ちる。いつ始まったか、いつ終わったか、はっきりしているようでそうでもない。そもそも、霧の中を歩いている様で記憶が曖昧なのが鬱やバブルの特徴なのかもしれない。どうせバブル時代の楽しさも、ただ浮かれてぼんやりしていただけで、その時の記憶は後付けで作られたものなのでしょうし。
 鬱から抜け出す方法は、宗教的な洗脳や、何かの中毒から抜け出す事と似ているのかもしれない。こうすれば、とかこの薬を飲めば必ず抜けられる、とも限らない。ただ、一生懸命に生きていれば、ある日振り返ると抜けている事に気がついた、とかいう参考にならない個人的な体験談が真実で、そこから普遍的な経験則や科学的な知見を取り出すのはとても難しい。洗ってさっぱり、なんて生やさしいものではない。けれども誰かがやらなければいけない。
私は精神医学は専門ではないので、参考にならないご都合主義の意見でしかないが、思い出は何度でも書き換えられるから、大丈夫だと思っている。脳の仕組みは、もともとご都合主義に出来ている。例えば、ベッドから落ちて目が覚めると、ブロック壁の上を落ちそうになりながらふらふら歩いていた夢を見ていたりする。あれは、落ちた衝撃と辻褄が合う様な物語を、頭の中で一瞬で作ってしまっているのだし、この、脳のご都合主義戦略はとてもしなやかで、面白い。
そうすると、思い出の方を書き換えてしまえばいいのか?という事になる。もちろん、事実や史実は変えられないし、書き換えてはいけないけれど、感情の記憶という思い出を書き換える事で、人生を楽しむ事は出来るのかも知れないと思う。
 さあ、今日もお洗濯を楽しもうと思う。
思い出も、洗ってさっぱり。