オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

邯鄲の枕 かんたんな冒険

 能に、邯鄲という演目がある。
その本歌取り(もどき)がしてみたくなった事がありました。

かんたんな冒険

 私は、幼い頃に古本屋に里子に出された。
母の顔は覚えていない。
古本屋を、夫と二人で営んでいた継母は、顔も体も丸くて、指も赤ちゃんの様にふくふくした、優しい人だった。幼い頃から、その丸い手で頭を撫でてもらうのが、私は好きだった。
 けれども、ある時から私は、どうしても冒険がしたくなったのだ。店に置いてある、トムソーヤの冒険、ホビットの冒険、果てしない物語、などを片っ端から読んでしまったからかもしれない。
 何度も家出を試みて、その度に連れ戻された。
22回目の家出の時に、ようやく随分と遠くまで来た。もう、帰り道は分からなくなりそうだったけれど、それでもいいと思った。だってそれが、冒険だから。
 大きな川を越えたところでお腹が空いてきた。
そうなると、ごはんよ、と呼んでくれた、優しくて甘い声が懐かしくなり、私は座り込んで泣き出してしまった。
「どうかしたの?」
見上げると、痩せた女の人が立っていた。私は、はっと我にかえり、
「冒険に出かけるところなのです」
と、しゃんとして言った。
「ごはんをあげるからついておいでなさい」
女の人は、優しげにそう言って、つい、と歩き始めた。私の冒険なぞ、興味もないようだった。
とはいえ、背に腹はかえられぬ。私は、女の人の後をついて行くことにした。
 女の人が立ち止まったのは、カラカラと安っぽい音を立てて開く玄関扉の前だった。
中からは、カビ臭いような、よその家の臭いがしていた。
「さあ、どうぞ。何もないところですけど。ごはんを炊いて来ますから。その間、まずはゆっくりとお休みなさい。」
痩せた女の人は、そう言って私を部屋へ招き入れた。畳のへりも、枯れ草色の畳面も、所々が擦り切れている。狭い部屋だった。
女の人は、その部屋の奥にある、引き手の周りが黒ずんだ襖を開けて、押入れから枕を取り出して置いてくれた。その枕は、艶のなくなった朱色に、金と銀の糸で刺繍がしてあった。かつては美しかったのだろう、とても高貴な雰囲気の、古い枕だった。枕からは、不思議な香りがしていた。なんだか、嗅いだ事のある様な香りだった。
 ああ、そうだ。私幼かった頃の、ある寒い日の昼下がりに、古本屋の本棚の前で遊んでいると、しゃらしゃらと音を立てながらお婆さんが入って来たんだった。
本を売りに来ました、と言ってカウンターの上に置いた本と、そのお婆さんから不思議な香りがしたんだっけ。
花の様な、木の様な、草の様な、お菓子の様な、その全部の様な不思議な香り。その香りと同じだ。そう思いながら、私は眠りについた。
 ふと、誰かが起こしに来た。
目を開けると、衣摺れの音が仰々しい、ごちゃごちゃした服を着たお爺さんだった。
「さあ、冒険へ参りましょう、あなた様は勇者です。」
そう言って、お爺さんは、恭しく頭を下げた。
私は、少し困って考える振りをしてから、
「わかりました。行きましょう。」
と、鷹揚な風に言って、お爺さんについて行くことにした。本当は、心の中で小躍りしたい程にわくわくしていた。
 お爺さんは、金糸の刺繍が施された、かつてはきらきらしていたのだろうけれど、刺繍も薄汚れてしまっている、古そうな帽子を被っていた。その草臥れた三角形の帽子の先から、七色の糸が尻尾の様に揺れていて、お爺さんの歩みと共にしゃらしゃらと音を立てた。私はそれを触りたいのを必死で堪えていた。勇者が従者に対してそんな事をするものではないと思ったから。
「さあ、どうぞ、冒険の始まりですぞ」
お爺さんは、跪いてそう言った。
三角の帽子を右手で取って胸にあて、左手を空に向けて伸ばすと、それに合わせて帽子の七色の房が、しゃらん、と音を立てた。
 お爺さんの左手の先には、乳白色の世界が広がっていた。眩しすぎることはないが、暗くはない。母乳の色みたいで、そこには何にもないけど全部あると思った。
 私は唾をごくんとしてから、自分の中のありったけの威厳をかき集めて言った。
「あなたは、一緒に来てくれるのですか?」
「勇者がお望みなら」
 そこからは、私が先に立ち、お爺さんを従えて歩いた。
少し歩くと、乳白色の地面から、突然階段が現れた。鉛筆の線で書いた様な頼りない階段だった。私達は迷わず階段を登り始めた。気がつくと、上がっていたはずの階段はいつのまにか下りに変わっていた。頭の上から、エッサー、エッサーという、誰かの掛け声が聞こえていた。
その声が止んで、しばらく鉛筆の階段を進むと、今度は足元から、同じ声でエッサー、エッサーと聴こえて来た。エッサー、エッサーは頭の上と足元を何十回か通り過ぎた。
「従者よ、この階段は何なのだ?同じ所をぐるぐると回っている様に思うが。いつになったら、冒険が始まるのか、お前は知っているか?」
私は階段を登る足を休める事なく、尋ねた。
「勇者さま、冒険は終わりに近づいております」
お爺さんがそう言うと、私の後ろで、しゃらん、と音が鳴った。
びっくりして振り返ると、お爺さんは消えていた。
乳白色の空間が、全てのものを飲み込み、お爺さんをも飲み込んでしまったかの様だった。
私はその、何もないけれど全てがある空間で、随分と長い間立ちすくんでいた。
そうしているうちに、ゆっくりと理解した。
冒険は終わっていたのだ。
 階段を歩いている間に、私は魔物退治の旅をし、失われた秘宝を取り返しに海の底にも行き、ある国で、勇者として民衆に崇められ、国王になったのだった。そして今や、天寿を全うした賢王としての自分の葬儀を、その自分の棺を、感慨深く空から見下ろしている所だった。
棺が担がれ、哀しみの鐘が鳴らされている。

「ごはんが炊けましたよ」
目を開けると、痩せた女の人がごはんを持って立っているのが見えた。
私は夢を見ていて、ごはんが炊けるまでの時間だけが過ぎていたのだった。
「同じ所をぐるぐる回る夢を見ていました」
と、私は言った。
「そうですね。同じ所を、何度も、何度でも回るのが人生。
食べて、排泄して、また食べる。
洗って、汚して、また洗う。
生きるという事は、その繰り返しね」
女の人はそう言った。自分に言い聞かせている様だった。
 私は、出されたごはんを食べ、丁寧にお礼を述べてから、その家を出た。
 さあ、帰ろう。
夢であっても、経験が魂に刻まれたのなら、それは本物の冒険なのだ。
 一生懸命に走って、家に帰った。
拍子抜けする程すぐに、懐かしい古本屋が見えてきた。
店先で、継母が立って待っているのが見える。
「ごはんよ、ローちゃん」
優しい、白くて丸い手が、ひらひらと私に向けられている。
「にゃあ」
 そうだった。
私は、猫だったのだ。
名前はロセイ。
 もう、家出はしない。たぶん。