オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

覗きこんではいけない。でも手遅れかも

今週のお題「ホーム画面」

 停車駅に近づき、電車はゆっくりと、そして完全に停車した。けれども駅ホームの随分手前らしく、いつもならぐんぐん流れていくはずの車窓の景色がぴたりと止まったままで、遅延を詫びる車内アナウンスが流れた。数分ならいいが、それ以上だと遅刻してしまうかも、とその場にいた乗客の、ほぼ全員が同じ事を思い始めた頃、電車の走行音が完全に消えた。すると電車内はとても静かになる。座席は埋まっていて、立っている人も一車両にざっと数十人はいる混雑具合なのに、全く誰も口を開かない。視界に入る全ての人がスマホを覗き込んで黙り込んでいた、ある平日の朝の通勤電車。スマホを覗き込んでいる人の群れを見ながら、いつも面白い事をSNSで発信している、ハンドルネームしか知らないあの人が、実は今、あそこに座っている人かも、などと妄想して時間をやり過ごす。電車の中は、コロナ禍以前はもう少し、誰かがお喋りしていた様にも思うけれど、朝の通勤時間は以前からこんなものだった気もするし、もう思い出せない。
 何十人も同じ空間にいるのに、全員が心ここにあらずで、今ここ、にいる人が誰もいない。スマホは、ここではない何処かへの窓で、その何処かのインターネット空間は、宇宙の様に広い公共空間だけれど、窓であるスマホはとてもプライベートでパーソナルなスペースで、だから他人のスマホは覗き込んではいけない気がしてしまう。何を見ているのか、誰とお話しているのか、なんだかとても気になるけれど。
 ところで、ルボンは、「群衆心理」の中で、イメージ(心象)でしか物事を捉えられない群衆は、強い言葉や印象的な標語、魅力的な幻想に、易々と引き寄せられていく。それは、人を操り、統治しようとする側からはとても都合がいい、と指摘していました。スマホの窓が開く、広すぎるインターネット空間とは、イメージの世界そのものではないですか。そう考えると背中が冷たくなります。ということは、他人のスマホだけでなく、自分のそれも、あまり乗り出して覗き込んではいけない。操られる群衆の側に落ちてしまうから。
ところが、本当はもう手遅れで、既に操られる群衆になる以外の生き方は用意されていない可能性もありえます。インターネット宇宙を覗き込み過ぎて落っこちてしまうだけではなく、こちら側の現実世界にいる私達の手元や足元から、イメージの世界が現実を侵食して来ている感覚が既にあるのです?
 仮想世界やシステムが現実社会に食い込んでしまって切り離せなくなっていく世界で、その究極には何が起こり得るか?を描いた、しかもとびきり素敵な作品を二つほど。
細田守監督の映画「サマーウォーズ」と、伊藤計劃の小説「ハーモニー」。サマーウォーズではインターネット上の仮想世界の中で、人はアバターとして生活し、それを現実社会に繋げて公共料金の支払いや買い物という形で現実と仮想世界のハイブリッド生活をする世界が描かれています。ハーモニーが描く世界では、日常生活の全て、健康管理や医療サービスに至るまでシステムに依存していて、そのシステムが正常に動かないと、虹彩認証ができなくなるという理由で自宅の鍵も開けられなくなる、という世界が描かれています。こういう作品に触れて、きたる仮想と現実のハーモニー社会を、人間らしく生き延びる為の心の準備をしないといけないのが今の時代なのでしょう。
電車の中で、オジサンが読むスポーツ新聞を裏から読んでた時代への郷愁を禁じ得ませんが。