オブネココラム

ほそぼそ産業医 その他MD.PhD.。ご放念下さい。

地元はちっぽけであって欲しい

今週のお題「地元自慢」地元とは、どれくらいの広さの土地感覚なのだろうか?
 小田嶋隆さんの最期の小説『東京4次元紀行』の中に、「東京の様な人口が稠密な場所では、一人の人間が親近感を抱き得る土地の面積が相対的に狭くなる」という一文があるが、東京以外に生まれ育った者は、東京に対して実際以上のとてつもなく巨大な都市を思い浮かべてしまうという面もある様に思う。だって東京に行くと、東京駅ですらとてつもなく巨大で、歩いても歩いても、なかなか東京駅から出ることさえ難しいのだ。地下鉄なんて、路線図からして既に巨大迷路の様で、迷い込んだら最後、生還出来ない気がして怖くなり、諦めてタクシーに乗ってしまう。そして運んでもらった先で、以外と安いタクシー代に拍子抜けするのだ。東京はタクシー代が安いのかと思っていたが、あれはもしかして意味のない近距離だったのかもしれないと気がついたのは、随分と年数が経ってからだった。つまり、東京の人が思う地元の範囲が狭いのではなく、地方の人が東京の事を勝手に大きく想像していて、実際にはそれほど広大でもなかった。という事なのかもしれない。
 そういえば、外国に行った時、あなたの地元はどこ?と聞かれて日本と答えた事を思いだした。その時、世界地図の中の、ちっぽけな島を思い浮かべて地元である日本への郷愁を募らせてなんとも寂しくなったのだ。地元はちっぽけでないと郷愁気分が盛り上がらないと考えてしまうのは、既に島国根性なのかもしれない。アメリカやロシアの人は異国で自国を思う時、広大な土地に思いを馳せて誇らしくなったりするのだろうか?
 郷愁の、返す刀でに手に入るのは、人生観が変わってしまう様な衝撃だ。異国の地に立ち、言葉も習慣も、居住い全てが同じ人間とは思えない程の断裂がある異民族の人と何とか折り合いを付けて、お互いに気分よく過ごす努力を持ち寄るという経験が人生にもたらすもの。それは、その経験の前後で自分が全く変わってしまうような、価値観がひっくり返ってしまう様な精神的衝撃であり、旅や移住の醍醐味だと思う。
 斬新な経験を求めて出かけるには、歳をとり過ぎてしまったと思う様になるその前に、コロナ禍が終わって欲しいと切に願う。

 

金運ないのはカバンの中身のせいなのか

今週のお題「カバンの中身」そういえば最近は、駅の改札やなんかで、カバンに手を突っ込んでゴソゴソしている人は見かけなくなった。皆、とてもスマートにさっと改札を通り抜けて行ってしまう。そんな都会人を横目に、いつまでもカバンをゴソゴソしてしまう私は、きっと日進月歩から取り残された絶滅危惧種なのだろう。
 探さないと出てこない定期入れ、という事はつまり、私のカバンの中は、大阪のおばちゃんのそれの様なのだ。と言うと語弊がある、申し訳ない。正確に表現すると、要するにとっちらかっているのだ。カバンの中に、飴ちゃんは入っていないが、予備のマスク、マイバックから始まり、身分証、ボールペン、何でも入れっぱなしだ。下手をするとスーパーで買い物しすぎて、マイバックに入らず、カバンに入れた買い置き用のオイスターソースが数日の熟成を経て出てきたりする。そんなこんなで、とにかく重たいカバンを毎日背負って出かけるのだ。我ながらご苦労様です。
 一時流行った風水の本か何かに、毎日カバンの中身を出して財布も出して気の流れのいい引き出しにしまいましょう。そして出かける時にカバンに入れましょう。そうすると金運が上がりますよ、と書いてあった。金運ってそんなに面倒なんだ、大変だなあ、と思って今日に至る。そして風水の教えを守らなかった結果、今の私がある。至極当然に、金運には見捨てられた様だ。いやそうでもないか。オイスターソースを入れっぱなしでも大丈夫なカバンを持ち歩ける財力はついた。
 世の中が平和だった頃、アラブの国に
 

猫を愛する人は

今週のお題「わたしは○○ナー」私は猫のバトラーである。或いは、猫の寵臣、佞臣、下僕、従者…。猫を愛する人は、なぜか猫にお仕えしてしまう。犬を愛する人とは主従が逆向きになってしまうのが面白い。猫なんて、本当に猫の目の様に気まぐれで、不意に一人になりたがったり、本を読んでいると邪魔をしに来てみたり、さながら、突然ふらりと眼前に現れて、一片の詩を吟じて去って行く詩人の様だ。猫さまの、あの若葉色の美しい瞳は深淵を湛えていて、覗き込む者に三千世界の成り立ちの秘密をちらりと、ほんの僅かだけを見せて、思わせぶりに目を閉じて眠ってしまう。その瞳を一度でも見た者はその深淵をどうしたって、また見たくなる。そうして猫は従者を従える。
 従者の喜びは、お仕えするお方が、自分を必要としながら拒絶する時に最高潮となる。甘い声で従者を呼びつけ、食事と寝床を設えさせる。そしてある時突然に、従者を叱り飛ばすのだ。些細なミスに、ぴしゃりと手を打ち、文字通りに牙を剥く。かと思えば寛大に赦し、優しくして下さる。その不規則な仕打ちと温情に、従者は振り回され、籠絡される。
 猫を愛する人は、トロフィーワイフを手に入れた成り上がりの男の様なものかもしれない。完璧な美貌と、完成された気高さと、完全なる我儘を取り扱い堪能する日々。人間のトロフィーワイフとは違い、別の人が好きになったからさよなら、とか言わないのが猫にお仕えする者の幸せなのだ。

 

感情にも、力学的エネルギー保存の法則

 彼女は、いつかの圧迫骨折のために円背となっていて、一見して、いわゆるお婆さんだ。整形外科に行っても痛いのは治してくれないし、話も聞いてくれないから行かないと言い張って、でも内科のかかりつけ医にはきちんと通い、膝や腰が痛いと訴えるのだ。自分でも内科でその話をしても仕方ないのは分かっている様だが、体調はどうですか?と聞かれると膝の話をしてしまう。とはいえ、耳も遠くなってきてそもそも会話が成り立たなくなってきた。マスクをしているから余計に、皆んなが何を言っているのか分からない様だ。夫も歳をとったが、なんとか二人で生活を続けている。夫は半身麻痺があり、更に動きは鈍い。最近ではかかりつけ医に通院するのも自分達だけでは行けず、息子と3人で行く事にしている。
 そんなある日、いつものように診察室に親子三人で入ると、高齢の夫は、妻の耳が聞こえず会話が成り立たない事を嘆いた。
「こんな調子で、全然話が通じませんのや。今日かて、補聴器忘れて来よるし、はあ」
ため息をつきながら、夫が主治医に、妻の愚痴をこぼすのは毎度の事。そしてそんな時も、いつもの彼女なら、聴こえていない為に、ぼんやりしている。
けれどその日は違った。
「そんな事言わんといてや。いっつもそう。優しさのかけらもない。」
険しい顔つきで言い放った彼女の様子に、その場の全員が驚いた。
「え?お母さん、聴こえてるの?」
息子が声を出したが、彼女は息子の方を見るでもなく、何も聞こえないと言った風だ。
「こんな風に会話になる事なんてないんですよ。」
という息子。
高齢の夫は、しばし黙り込んでしまった。自分は妻に優しくしてこなかったのだろうか?と自問しているように見えた。
彼女の訴えは続く。
「前までは、ここに来たら、、足の爪を切ってくれたりしたのに、最近は何にもしてくれない。」
「そうでしたか。では、今日は足のケアをして帰りましょうか?」
主治医が提案しても、既に全く聞こえていない様子だ。しかし、彼女なりに皆の様子が変だという事に気がついている様で、さらに不機嫌そうな険しい顔をしていた。

 私は、あの出来事は何だったのだろうと、ずっと考えこんでいる。優しさのかけらもない、と言い放った彼女の険しい顔、当惑と後悔がないまぜになった様な表情を浮かべた高齢の夫を、思い出しては考えている。
 彼女はこれまで、頑固で神経質な夫をこまごまと世話を焼いてきたのだと思う。今では家の中でも何度も転倒してしまう程足腰は弱り、入浴も介助がないと出来なくなっていた。もしかして、「優しさのかけらもない」のは彼女の、自分自身への苛立ちだったのだろうか?誰かに優しくされたいのではなく、本当は優しくしたいのではないだろうか?
なぜなら、私が、いわゆるクレーマーの話を聞いた時いつも思うのは、それはご自身の事なのでは?という事だから。相手に思いやりがないと責める人、大切にされていないと息巻く人、馬鹿にされたと憤る人、それはあなたが自分自身に向けた思いなのでは?といつも思うのだ。大抵のクレーマーは、ゆっくり話を聴くと、それだけで落ち着く。そんな時に、そうですね、あなたは老婆心からお説教をしようとしただけなんですよね、とかいう結論に落とし込んでいくと納得して穏やかになるのだ。そして話を聴いている間に、クレーマーが、本当は自分自身に腹を立てていた事を知ってしまう事になるのだ(しかし、それは決して口に出してはいけない。そういうものだから)。
 人を呪わば穴二つ、とか、情けは人の為ならず、と言うけれど、あれは因果応報というような、呪いや想いがが自分自身に帰ってくるというカラクリを示しているのではなく、最初から自分自身に向けられている事を示唆していると思う。つまり、ありがとうを発する事、それは自分自身に感謝する事と同義で、反対に誰かを非難する時、その怨念は同じだけ自分自身にも向かうのだ。矢が飛んで行く時、それと同じだけの逆向きのエネルギーが弓にかかる様に。まるで人が発する感情に力学的エネルギー保存則が成り立つかの様だが、そう考えないとと平仄があわない。
 そうしたエネルギー保存則を考えると、介護されるだけの存在はとても苦しいものとなるのは容易に想像できる。一方的に与えられるだけでは、エネルギーの流れが滞留して、いつか破綻してしまう。飛ばない矢を抱えたままの弓が、早晩壊れてしまう様に。ではどうしたらいいのだろう。
 彼女にありがとうを言おうと思う。ありがとうを言われることは、つまり言われた人が、優しい何かを出力したという証だから。難聴の彼女には、家族からありがとうを伝えてくださいとお願いしてみようと思う。そう、高齢で聴力が落ちて理解力も落ちた人と多くお会いしてきたが、不思議な事に家族の声は、というより家族の声だけ聞こえる事にいつも驚かされる。ちなみに、ペットの鳴き声で何を言おうとしているのか解ってしまう飼い主も多いと思う。(犬と人を並べると不愉快に思われる場合もありそうなので、これも言わないようにしているが)。ついでに、家族の声だけは聴こえるのね、と言うと、本人もご家族も嬉しそうにされるので、その嬉しさをお裾分けしてもらう事にしようと思う。
 

家に帰りたい、という奇習

今週のお題「マイルーティン」漫画家のヤマザキマリさんが、ご自身の事を「二ヶ月と同じ所に留まれない移動系体質の人間」と書いていた。私は、いつも同じ場所で眠りたいし、旅行に行っても数日もすれは帰りたくて仕方ない、というマイホーム好き人間だ。とはいえ、こだわりのある家に住んでいるという訳ではなく、どちらかというと、そのうちパイレーツオブカリビアンに出てくる幽霊船の船員の様に、家に同化して溶けてしまうのではないかと時々怖くなる様なタイプである。
 映画ノマドランドは、車中泊を続けるという現代の遊牧民の姿が描かれていた。自由とは過酷なんだよ、それでも、自由っていいだろ。と言われた気がした。過酷な自由を生きるって、やはり遠い民族の奇習としか思えなかった。
 流石に20代の頃は海外移住なんかに憧れたりもするが、30才を超えると転職も引っ越しも、相当な覚悟がないと出来なくなる。40才を超える頃には離婚して生活が変化する事が怖くて夫婦仲が悪くても何となく過ごし、50才を超える頃には、デジタルの使い方を後輩や部下に教えて貰う事に躊躇がなくなる(新しい事を知らない、馴染めないでいる自分に恥じらいがなくなる)、そして60才を超えてふと気がつくと、20年以上も毎日全く同じメニューの朝食を食べている。その後、運が良ければ70才を疾病なしで迎え、ネトウヨ紙一重の郷土愛を募らせて、我が町バンザイならまだしも愛国心とか言い出すんじゃないかと自分でも薄ら寒くなる。
とかいうのが、おそらく自宅愛系の人間の奇習なのだろう。どっちがいいとか悪いとかではなく、ただ違いを面白がってみようと思う。
 そういえば、職を転々としている人には何人かお会いした事がある。彼らはしばし一緒に働いて、ふいと居なくなるので、その後の彼らがどうしているのか知らない。今度そういう人が現れたら、彼らとの人生観の違いを楽しもうと思う。毎日同じ場所で目覚めて、同じ時間に出勤して同じ仕事をして、帰って同じ布団で眠る事に、飽きてしまうのだろうか? 私にとっては毎日が同じなのが、とても居心地がいいのだけれど。
 
 

リチャード3世と貞観政要

 シェイクスピアって、面白い。知らなんだ。知らないで死ぬのはもったいない程、面白い。
これまで、リア王とか、ロミオとジュリエットとか、利己的にしか生きられない人間のもどかしさのフルコースみたいな物語がどうにも息苦しくてあまり好きではなかったけれど『リチャード3世』は、王位を巡る歴史小説で、実在の人物を描いている。そしてそれは『坂の上の雲』や『龍馬がゆく』の様な明るいものでは決してなく、『鎌倉殿の13人』の様な血みどろの権力闘争、人間模様を描いている。
 シェイクスピアのリチャード3世は、外見が内面を現しているかの様な醜悪な青年として描かれる。
「美しい五体の均整などあったものか、寸たらずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世に投げやりに放りだされたというわけだ。歪んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠える」と、自身の外見を嘆き、薔薇戦争が終わり平和が訪れた時代に、「そういう俺に、戦も終り、笛や太鼓に踊る懦弱な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。…口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪ってやる」と独白する。そして、自分が考えた筋書き通りに「高慢、狡猾、陰険、残忍」なやり方で自分より王位継承権が上の、兄や甥を次々と幽閉、暗殺し王位に就く。ところで、リチャードの狡猾な性質を周囲の人々は理解していて、そんな人物が国王になったとして、なめらかに国を統治できるとは誰も信じていなかった筈なのだ。それなのになぜ、その様な人物が王位に座るような事になったのか、その事もシェイクスピアは丁寧に描いている。彼を王位につけようと手助けした人は、彼に騙された、純粋で幼児的な人物(兄クラレンス)、自分の政敵を倒すために暴君を利用してやろうと考えた悪党(ヘイスティング卿)、「それがどういうことか仔細は問うまい。その意味から私は無実でありたいからな」と、自分は悪くないと思いたい人(ロンドン塔長官ブラッケンベリー。クラレンスが幽閉されている牢の鍵を暗殺者に渡してしまう)。こういう本当は立派な人々の、お互いに狡猾で複雑な感情、政治学的状況が絡まりあって抜け出せなくなっていく。そしてその人達は全員が、結果的には暴君により利用された後に殺されてしまう。
 こうやって物語を外から眺めると、暴君の成立に関して、全員がそれなりの責任がある事がわかる。見て見ぬふりをした人でさえ、それなりの責任がある事が理解できる。国を滅ぼす様な暴君を阻止するには、全ての人がそれぞれの立場で、高潔に振る舞う必要があったのだ。もしクラレンスが、夢の中では理解していた弟の狡猾さや残虐さと、目覚めている間に正面から向き合う事が出来ていれば。また、もし、ヘイスティングが良心に従って、自身の政敵と和解か、それに至らないまでも認め合う様な友情を育てる事が出来ていれば。それから、もし、ブラッケンベリーが牢の鍵を渡す事を拒否していれば。物語を変える力はこれらの、全ての「もしも」を必要としただろうけれど、一つの違う流れが次の違う展開を呼んだ可能性は十分にある。
 また、シェイクスピアは、権力闘争の最後に、民衆によって支持されて王位に就くリチャードというものを描きこんでいる。史実はさておき、なぜ民衆の承諾という場面を描く必要があったのか。一般民衆は権力や王位とはほぼ無関係なのに。つまり、描く必要が特にあるとは思えない。
これは、国という大きな集団を統治するという政治力学においては、構成員である国民は民衆の一人ひとりに至るまでの全員が無責任ではいられませんよ、とのシェイクスピアからの叱咤なのか。あるいは、群衆心理というものの恐ろしさを、シェイクスピアが深く理解していて、権力者は選挙権のない民衆であったとしても彼らが放つ群衆の力からは自由ではいられないぞ、という警告なのか。
 そういえば、貞観政要には「君は船なり、人は水なり」とあり、民衆は君主を浮かべる事もできるし、転覆させる事もできる、と説いている。
現実に照らすと、安倍政権からの自民党政権は、舟に乗っている人だけが私腹を肥やす事に注力している間に、劣化した舟がじわじわと浸水して沈んで行くのを見せられている様に見える。水の方が舟を転覆させる程の嵐を起こしている訳ではなく舟の方が自壊している。それでもなお、浸水をなかった事にしてやり過ごそうとしている。腐って痛んだ船底を張り替えずに浸水から目を逸らしていればどうなるのか、舟は沈むしかない。
 いずれにせよ、どちらの物語も、民衆と為政者の関係は切り離す事は出来ないと示している。そうなると、この社会で水の一滴、民衆の一人として取るべき責任とは何なのだろう?スタグフレーションに耐え、円安に耐え、それでも社会を支え続けるという事か。気が重い。でも、やらねば。そして返す刀で、盲目的に現状の舟を浮かべ続けるのではなく、どんな舟を浮かべたいのか、舟の修理や新造船を含めて、水が水の立場で考えてもいい、為政者を教育したり取り替えたりしてもいい、そうする責任があるのだ、と貞観政要を解釈しようと思う。
 
 
 

アンチブードゥー、反反知性主義に生きるには

アベノミクスはブードゥー経済学だったのか?とかいう、オシャレな言説を仄聞した。
 ブードゥー経済学?なんかのおまじないか?という訳で、ここはグーグルさんにお願い。
すると、
 
国際経済学の授業では、「“貿易黒字は儲けで貿易赤字は損”というのはブードゥー(呪術)経済学だ」と真っ先に教えられます。
グローバル市場はひとつの経済圏ですが、便宜上、国ごとに収支を集計します。これは、日本市場を詳しく分析するのに県ごとの収支を計算するのと同じことです。県内のパン屋が県外の顧客に商品を売ると「貿易黒字」に加算されます。このパン屋が県外から小麦粉を仕入れると「貿易赤字」になります。しかしこれはたんなる会計上の約束ごとで、パン屋の儲けにも、ましてや県のゆたかさにもなんの関係もありません。
ブログ橘玲 作家
2018/10/22(月)

という事らしい。
えええ?
という事は、毎日の様に流れるニュース解説は、経済学的にはブードゥーなの?経済学や政治学の研鑽を積んだ偉い人が政策決定をしていて、それにドライブされる社会の動きを、大学で文系学を修めた高学歴のアナウンサーが解説しているんじゃなかったの?学問的にまちがっていると思う原稿は、恥ずかしくて読めないと思うけれど。まさか全員で、偉い先生がいう事にいちいち反抗してみるけれど目の前の上司のいう事はとりあえず聞いておくみたいな思考停止、ヤンキーしぐさの様な反知性主義に陥っているとか?或いは、政策決定する立場の人々の知性や徳性を疑う事から始めないといけないのか?
そういえば、賢明な人物が然るべき立場に立って、この社会を回している事を信じられなくなる出来事が続いています。知らなかった、覚えてないなどと言って馬鹿の振りをする政治家というのは、自分達が享受して来た、恐らく政治家には死活的に必要だった筈の、信頼や尊敬の念というのを、そんなの要らないと言っているようなものだし。そうして国会議員は子供の憧れの職業ではなくなってしまった。末は博士か大臣か、なんてもう誰も言わない。高価な時計や車も、成功者のアイコンではなく、詐欺師や犯罪者のアイコンに見えてしまう、こんなご時勢。
 こんな時代に、何をどう考えればいいのか、どの様に社会と向き合えばいいのか?経済学とか政治学とか文系学問と縁遠い私が一人で考えていると、飲めないくせにヴィンテージワインについて語る中学二年生の様になってしまう。結局、余計に謎は深まる。
とはいえ、やはり社会学や経済学や哲学、それから文学といった文系学に答えはある筈なので、少しずつでも文系学問を取り入れて、学問を修めた先生達の言説を尊重するしかないのでしょう。混沌の時代に頼りになるのは、実は文学だったりするし。
という訳で、とりあえず本を読もうと思う。権限を持つ人物が、自分は馬鹿でもいいと公言する様になっても、メディアがヤンキー反知性主義に牛耳られているとしても、この社会はまだ、禁書とか焚書までは堕ちていなさそうだから。
 活字中毒バンザイ。